◎「たちまち(忽ち)」

「たちまつひ(経ち間終)」。「たちま(経ち間)」とは、経過しているその時間域。その「たちま(経ち間)」が「つひ(終):終局」であるとは、間(ま)はある。しかし、それはもはや終わった状態の間(ま)であること。つまり、「たちまつひ(経ち間終)→たちまち」は、経過たる間(ま)はある、しかしそれは終了状態にある間(ま)であり、事実上なんの影響もなく、間(ま)はないのと変わらないこと。つまり、そのまま、のような意味になる。なんらかの経過がありその経過がそのまま他の何らかの経過になる。

「…玉櫛笥(たまくしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世(とこよ)べに たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ 頓(たちまち)に 情(こころ)消(け)失せぬ 若くありし 皮(はだ)も皺(しわ)みぬ 黒くありし 髪も白けぬ…」(万1740)。

「阿波民部重能は、此三箇年が間、平家に能々(よくよく)忠を盡(つく)し、度々の合戦に命を惜まず防ぎ戦ひけるが、子息田内左衛門を生捕にせられて、いかにも叶はじとや思ひけん。忽(たちまち)に心替りして、源氏に同心してんげり」(『平家物語』)。

「法師、此れを聞て、涙を流して宣はく、『汝が身は、既に不浄に成りにたり。我が身、忽(たちまち)に不浄に非ずと云へども、思へば亦、不浄也。然れば、同じ不浄を以て、自から『浄し』と思ひ、他を穢(きたな)まむ、極て愚也。我れ、汝が身を吸ひ舐て、汝が病を救はむ』」(『今昔物語』:たちまちに不浄にあらず、しかし、思えば不浄。現れている現象そのままで不浄というわけではない。しかし、(仏の境地を)思えば不浄)。

 

◎「たちもとほり」(動詞)

「たち(立ち)」は発生感を表現し、動態の発生感は現実感でもある(「(舞台の)たちまはり(立ち回り)」「たちはたらく(立ち働く)」)。つまり、「たち(立ち)」により動態の動態現実感が強調されるわけである。語頭の「たち」はそうした「たち(立ち)」。「もとほり」は同じところを何度も廻(めぐ)るような動態になること→「もとほり(廻り)」の項。

「木の間より移ろふ月の影を惜しみ たちもとほるに(俳徊尓)さ夜更けにけり」(万2821)。

「仿偟 …タチモトホル」「徘徊 …タチモトホル」「延佇 …タチモトホル」「留連 タチモトホル」(『類聚名義抄』)。

「佪穴 人之心従轉不完之皃太知毛止保留」(『新撰字鏡』:「人之心 従 轉不完之皃」は「人の心が果てしなくさまよふ」)。