◎「たたずみ(佇み)」(動詞)
「たたぬにすみ(立たぬに済み)」。「ぬ」は否定。「に」は動態を形容するそれ。「たたぬにすみ(立たぬに済み)」は、立たぬ状態で済み、ということ。この場合の「たち(立ち)」は、椅子に座(すわ)っている人が立ち、のような意ではなく、発生感を表現する原意たる、目立ち、香(かを)りたち、時間が経(た)ち、などの意のそれ。動態の発生があれば、(旅へと)発(た)つ(旅立ち)、の、「たち」にもなる。「すみ(済み)」は、それのそれとしてあるあり方になること(→「すみ(澄み・済み)」の項・5月15日)。それは完成、終了の意にもなる。「たたぬにすみ(立たぬに済み)」は、「たつ」ことが思われる、発生が思われる、しかし、たたぬ状態でそれのそれとしてあるあり方になる・終了する、こと。たとえば、ある特定域で、完全に静止しているわけではない。動きはあり、なにごとかが起こる予感は感じさせ、なにごとか、なにかの動態、の発生を思わせる。しかし、発生はなく、それだけで終了する。そんな動態が「たたぬにすみ(立たぬに済み)→たたずみ」。「ただすみ」「ただずみ」という言い方もあった。
「世の中哀に心ぼそく覺ゆる程に、石山にをとゝし詣でたりしに、心細かりし夜な夜な、陀羅尼いと尊う讀みつゝ、らいだう(礼堂)にたゝずむ法師ありき。問ひしかば『こぞから山籠りして侍るなり…』」(『蜻蛉日記』)。
「寸歩 タタスム」「佇 …タタスム…トマル…」(『類聚名義抄』)。
「…事を大(おほい)に苦慮し、我が家へ這入(はい)りかねて門(かど)に彳(たたず)んで居た」(『妙好人伝』)。
「内証勘当して追出しければ、外(ほか)に彳亍(タタスム)かたもなく、哀(あはれ)にさまよひ歩行(ありき)しを…」(「浮世草子」『懐硯』:この例における「たたずみ」は、動態の発生が完成的・終了的にないということはそれは限定的な小領域でのことにもなり、その語の、限定的・定点的な小域にあるという意味が社会的に解され、生活すること、それも不安定な生活、を意味している。ちなみに、「彳(テキ:左歩)」「亍(チョク:右歩)」は両方合わさると「行(ギャウ・カウ:いく、おこなう)」になるが、どちらも独立した漢字)。
◎「たたずまひ(佇まひ)」(動詞)
「たたずみはひ(佇み這ひ)」。「たたずみ(佇み)」はその項。「はひ(這ひ)」は情況化すること。たとえば「~はひ」は「~」が動態情況化する。たとえば「ならひ(習ひ)→なれはひ(馴れ這ひ)」は馴(な)れが動態情況化する。動態情況化とはその動態が時空普遍化すること(空間的時間的に普遍化すること)。「たたずみはひ(佇み這ひ)→たたずまひ」は、「たたずみ(佇み)」が、すなわち、動態発生感が予感的にあるが完成的・終了的にない状態で、(つまり、佇(たたず)む)ことが、動態情況化する、ということなのですが、どういうことかというと、動態的存在主張が感じられない状態でそこに居たり、あったり、そこで生活したりしている。そうしている(人も含め)ものやことが名詞や動詞たる「たたずまひ」。たとえば、それがものであり、「庭石のたたずまひ」などと言われた場合、その庭石に、その庭の主(ぬし)の財力や社会的権勢や美的趣味などを誇り飾ることが感じられそうした個別的社会動態的存在主張がある場合、それは「たたずまひ」にならない。それはなくその石がそこにある場合、それはそこに「たたぬにすむ(立たぬに住む)→たたずむ」(→「たたずみ(佇み)」の項)。また、「たたずみ」という語は、まったく静止するわけではないが、限定的・定点的な小域にあるという印象があり、その印象が社会的に解され、その情況が生活も意味し、そのための仕事、それも広範な活動の印象のある商売などではなく、生きていくための活業、を意味し「たたずまひ」という語が用いられもした。
「所につけて、(粥杖で背後から誰かの腰を打たんと)われはと(我はと)思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、おくのかたにたたずまふを、まへにゐたる人は心得てわらふを、「あなかま」とまねき制すれども…」(『枕草子』:これは、正月15日に粥を煮た時の燃えさしの木を削って作った杖で腰を打つとその人は子ができるという俗信があり、それを狙う女房があり、その情況を言ったもの)。
「躑 タタスマフ」(『類聚名義抄』:「躑(テキ)」は中国の古い書に「行不進也」と書かれる字)。
「出で居(ゐ)も吉(よ)く経行(たたずまひ)も吉(よ)く遠見も𪫧怜(おもしろし)」(『東大寺諷誦文稿』)。
「中島の入江の岩蔭に(舟を)さし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵に描いたらむやうなり」(『源氏物語』)。
「見ればただ何の苦もなき水鳥の足にひまなき思ひとは、人間(ひと)さまざまの活業(たたずまひ)、…」(「浄瑠璃」(「人情本」『春色梅児誉美』)。