◎「ただか」
「たちわくか(立ち沸く「彼」)」。「か(彼)」は、「あれ」のように、漠然と何かを指し示す。「たちわくか(立ち沸く彼(か))→ただか」、とは、意思にかかわらず、無からわきあがるように、再起する印象記憶。
「…間(ま)もおちず 吾(われ)はぞ恋ふる 妹がただか(正香)に」(万3293:最後の「に」は動態を形容する「に」。ただかに(立ち湧く「か」の状態で)恋ふ、ということ)。
「…冬の夜の 明かしも得ぬを 寐(い)も寝ずに 吾(われ)はぞ恋ふる 妹がただか(直香)に」(万1787)。
「聞かずして黙(もだ)もあらましを何(なに)しかも(なにをどうしようということで)君がただか(正香)を人の告げつる」(万3304:聞かずになにごともなかったかのようにいられもしようものを…)。
「我が聞(きき)に繫(かけ)てな言ひそ刈り菰(こも)の乱れて思ふ君がただか(直香)ぞ」(万697:私に聞こえるように言わないでくれ―。何を言うなと言っているのかよくわからない歌ですが、な言い(言わないで)、の「な」に「名(な)」がかかっているということか)。
「…幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あ)が祈(こ)ひ祈(の)まく はしけやし 君がただか(多太可)を ま幸(さき)くも ありたもとほり(ただま幸(さき)くのみあり) 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛に 相見しめとぞ」(万4008:全体で言っていることは、祈(こ)ひ祈(の)まく(祈り願うことは)、君がただかを(思い、ありありと見るあなたを)、相見しめとぞ(現実に見させてくれということ))。<br/>
「…まがこと(枉言)や 人の言ひつる 我が心 筑紫の山の 黄葉(もみちは)の 散り過ぎにきと 君がただか(正香)を」(万3333:これは挽歌)。
◎「たたかひ(戦ひ)」(動詞)
「とあたかひ(鋭敵交ひ)」。「と(利・鋭)」は非常に効果的であること(その項)。「あた(敵)」(その項)は、原意は自己に傷を負わせたなにかであり、それに対し緊張が起こり、限界を超えれば排除や廃棄の衝動が起こる。「とあた(鋭敵)」はそれが非常に効果的に起こるなにか。「かひ(交ひ)」は相互交流関係・交感関係が維持されること。すなわち、「とあたかひ(鋭敵交ひ)→たたかひ」は、非常に効果的な「あた(敵)」の関係が維持されること。つまり、「あた(敵)」の関係が起こり強まる。古くは「Aとたたかひ」ではなく「Aをたたかひ」という言い方があった。「一(ひとり)の大僧有(あ)り。斧(をの)を執(と)りて父を毆(タタカフ)」(『日本霊異記』:斧をもって父を撲殺した)。「さし籠めて守り戦(たたか)ふべきしたくみ(下組:下準備)をしたりとも、あの国の人をえ戦(たたか)はぬ也」(『竹取物語』:あの国の人と戦うことなどできない)。この表現は、「Aと交(か)ひ」ではなく、「Aを交(か)ひ」になるわけであるが、これは「恨(うら)みをかひ」(恨みを被(こうむ)り)「害をかひ」(『徒然草』三十八段)などのそれと同じであり、上記の例では父や「あの国の人」を被(こうむ)る。そしてそれは極めて効果的な敵(あた)として被(こうむ)る。すなわち、父や「あの国の人」と敵対関係・闘争関係が維持される状態となりそれは動態としても現れる。すなわち、闘争が起こる。「Aをたたかひ」と言った場合、主体の人格的状態が表現されるわけですが、それにはつねに人その他の対象(戦いの対象)との関係があり、「Aとたたかひ」と言った場合、Aは「と」で思念的に確認され、その対象が客観的に表現され、相互的闘争が表現される。
この語の語源は動詞「たたき(叩き)」で考えることがほぼ常識の状態になっている。しかし、「たたき(叩き)」という動態は、闘争で現れはするが、闘争関係にあることは意味しない。また、「たたき(叩き)」という動態は闘争や闘争関係にあることを表現するにはあまりにも微力。
「以非法教人 流行於國内 鬪(タタカ)ひ諍(あらそ)ひつつ姧(かた)み僞(いつ)はること多く 疾疫生衆苦」(『金光明最勝王経』卷第八王法正論品第二十:平安初期点:ちなみに、この三句部分、20世紀ころには「闘諍(トウジヤウ)して姧偽(カンギ)多く」と読まれている) 。
「…樹(こ)の間(ま)よも い行きまもらひ たたかへば(多多加閇婆) 吾(われ)はや飢(ゑ)ぬ…」(『古事記』歌謡15)。