「ちあだ(路徒)」。「ち(路)」は対象に同動する進行を表現しますが(その項)、それが「あだ(徒)」であり、それへの期待は虚(むな)しい、とは、対象への進行なくそれと同動するということ(直接)。また、そこでは他への進行も虚(むな)しく(対象との同動しかなく)、対象はそれに限定されもする(「ただそれだけ」)。また、それは、「ただに~」「ただの~」とも言われ、「~」には動態やものやことが言われ、「ただに~」と形容された動態の「~」は他の進行経過は期待できない虚しい動態であり(つまり、他の進行経過はないそれだけの動態)、「~」で表現されたその動態の進行があるだけであることが表現される(動態がそれに限定される)、また、対象たる「ただの~」の「~」はそこへの特別な進行経過への期待は虚しい、自己に常な・平凡な、特別性のない、ものやこと、という意味にもなっていき(「天才もはたち過ぎればただの人」:「ただの~」により対象への進行なく対象たる「~」と同動することももちろん表現される)、それらは「に」「の」が省略された表現でも言われる。また、あるものごと(A)に他のものごと(B)の進行経過への期待が虚(むな)しければそのものごと(A)はものごととしてそれに限定されてあり、そのものごと(A)に他のものごと(B:報酬や対価)はない(無料。「ただ働(ばたら)き」)。
この語は「ちあだあひ(路徒会ひ)→ただあひ」、「ただにあひ(ただに会ひ)」、「ただのあひ(ただの会ひ)」といった表現が発生起源でしょう。それにより、対象に同動する進行への期待が虚(むな)しいことが、対象に同動する進行は期待できず対象に同動することはできないのではなく、対象に同動する進行などなく会ふこと、同動すること、が表現される。「路(ち)徒(あだ)に会(あ)ふ→ただにあふ」は、会(あ)ふことへの経過進行、会(あ)ふための努力、は思っても、期待しても、なにもなく、会(あ)ふ。会(あ)ふことへの経過進行、会(あ)ふための努力、なく、会(あ)ふ。会ひ、そこでは会ふ努力は泡がなくなるように消え去っている。その「あひ(会ひ)」は男と女のそれであり、「ただあひ」は、「ただ」の状態で会ひ、他の動態や他者は必要もなければ期待しても無効な二人の会ひであり、男と女の関係がうまれることも意味するような「あひ(会ひ)」。その表現が「ただに~」と「~」でさまざまな動態が言われ、「ただの~」と「~」でさまざまなものやことが表現され、さまざまな応用や意味の発展が起こる。
「媛女(をとめ)に ただに(多陀爾)遇(あ)はむと 吾(わが)黥(さ)ける利目(とめ)」(『古事記』歌謡19:「黥(さ)ける」は入れ墨をしているということ)。
「直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ(逢うことはできない)石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ」(万225:これは死んだ夫を思っている歌)。
「月夜よみ妹に逢はむと直道(ただち)から我れは来つれど夜ぞ更けにける」(万2618:進行として目的への進行以外他はない路(ち))。
「志雄路(しをぢ)から直(ただ)越え(多太古要)来れば羽咋(はくひ)の海朝なぎしたり船楫(かぢ)もがも」(万4025:動態として他の進行経過はない越え来(き))。
「…大伴の 御津(みつ)の浜びに 直泊(ただは)てに(多太泊爾) 御船(みふね)は泊(は)てむ 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまして 早(はや)帰りませ」(万894:なにごともなく(無事に)泊(は)てる)。
「我(わ)が生(う)める國、唯(ただ)朝霧(あさぎり)のみ有(あ)りて薫(かを)り滿(み)てるかな」(『日本書紀』:事象は朝霧があることに限定され、朝霧以外ない)。
「ささらがた 錦(にしき)の紐(ひも)を 解(と)き放(さ)けて 数多(あまた)は寝ずに 唯(ただ)一夜(ひとよ)のみ」(『日本書紀』歌謡66:「ささらがた」は模様と言われますが、「ささら」は極めて浅い水流の状態を表現する擬態であり、「がた」は「潟(かた)」(海のような陸のようなところ)でしょう。また、この歌は允恭天皇が衣通郎姫(そとほりのいらつめ)を誘っている歌、と言われますが、その場合、幾夜も寝なくていいから一夜だけ、のような意味になる。そういう歌ではなく、二人の思い出はあの一夜だけだ…、という歌でしょう)。
「直(ただ)今夜(こよひ)逢ひたる子らに言(こと)とひもいまだせずしてさ夜ぞ明けにける」(万2060:ほかの日には会えない。せっかく会える機会の今日、この夜。「子ら」は、複数ではなく、「子(こ)」の情況にある人。「こ(子)」は、子供、というわけではなく、女性を愛情をもって表現している。これは七夕の歌)。「ただ一目」(他のどのような動態でも、二度会うことでも、再び会うことでもなく、一目)。「ただそれだけ」。
「亀、「更(さら)に呑むべからず。只乗せ給へ。かかる者をば、助くるが吉き也」と云へば…」(『今昔物語』:これは、大きな蛇が、助けてくれ、と船によって来たことに対し亀が言っている。初めの言葉は、あの蛇はあなたを呑むことなどけしてない、ということ。上記「ただ一夜」は時域が限定されていますが、「ただ乗せ給へ」は動態が限定されている。何も考えず何もせず、乗せることだけをしろ、ということ)。
「夜に成て、兵共は只(ただ)の様にて、一人づつぞ其の家に行て、隠れて居たりける」(『今昔物語』:世に常にある平凡な、ありきたりな状態で)。「ただの殿上人」(普通の殿上人)。「ただごとではない」。
「まだいと若うて、后のただにおはしける時とや」(『伊勢物語』:后が、后という特別な状態ではなく、普通の状態でいたとき)。「貝をばとらずなりにけるよりも。人の聞き笑はんことを、日にそへて思ひ給ひければ、たゞに病(や)み死ぬるよりも人聞き恥づかしくおぼえ給なりけり」(『竹取物語』:普通に死ぬよりも)。
「(掘り開けるなと言われたが)云ふ甲斐無く掘開(ほりあけ)てけり。然れば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴る事は無(なく)て、只(ただ)有る鐘にて有る也けり」(『今昔物語』:普通に、どこにでも、ありきたりにある鐘)。「ただではすまさぬ」。「ただならぬ気配」。
「産養(うぶやしなひ)、馬のはなむけなどの、物の使(つかひ)に禄(ろく)など取らせぬ。はかなき薬玉(くすだま)、卯槌(うづち)など持てありく者も、必ず取らすべし。思ひかけぬ事に得たるをば、いと興(キョウ)ありと思ひたる。今日は必ずさるべき使ぞと、心ときめきして来たるに、ただなるは、まことにすさまじ(心がさめる思いがする)」(『枕草子』:この「ただ」は、そのことだけ。それに応じた祝物のような褒美のようなものを与えることがない。これが「只(ただ):無料」になる。「卯槌(うづち)」は邪気払いの槌)。
「あれへおりやつて舟におのりやつた成らば、定(さだめ)て船賃をおこせいと云(いふ)で有(あら)う所で、船賃は薩摩守とおしやれ。…………心はと問(とは)ば、忠度(ただのり)とこたへさしめ。……………斯(か)うさへおしやつた成らば、悦(よろこ)うで舟にたゞのりするであらうぞ」(「狂言」『薩摩守』:そう言えば無賃で舟に乗れると教えている)。
「口つきあいぎやう(愛敬)づきて、少しにほひたるけ(気)つきたり。清げなりけり。唯(ただ)眉の程にぞおよすげ、あしげさも少し出で居たりと見る」(『落窪物語』:「およすげ」は、大人げ、や、老成、を感じさせるということ。「悪(あ)しげ」は、あまりよくない、ということ。「文(A)。ただ、文(B)」という表現があった場合、文(A)で言っていることはそのことへ経験経過進行しそれに影響を及ぼすことは期待できずそれは不干渉界に入ったように、閉ざされたように、限定され、文(B)ではその補いがなされ、補足が言われたり、文(A)により生じる不信の解消や、それに対する確信性の無さをただし、確信を得ようとしたりする。たとえば、「その山に住むそのおばあさんは見るからに柔和でやさしいおばあさんだった。ただ、夜になると…」といったようなこと(これは文(A)に対する補足であり、上記『落窪物語』の例も補足)。この「ただ」に動詞「し(為)」が加わると、文法で「接続詞」とも言われる「ただし(但し)」(その項)になる)。