◎「たしか(確か)」
「たしか(た然)」。「た」は「たは(呆)」によるそれである(「たやすし」「たもとほり」などのそれ。「た」の項参照・9月5日)。意味は、自分が経験したことが、その経験になく、限度を超えていることを表現する。「しか(然)」もその項参照(2022年9月3日)。意味は、なんの疑問・不審・不信もなく理想たる、完全にその通り、ということ。「しか(然)」も「たしか(確か)」も、その表現における確認性の強度が変わるだけで、意味に決定的な違いはない。つまり、「たしか(確か)」は、呆れるほど、呆然とするほど、然(しか)だ(確かだ)、ということ。
この語、自分の記憶に不信が生じ自信が揺らいだ際、その記憶を確信させ自信を回復させようとする努力としてももちいられる→「鍵はたしかここに入れた…」。
「弟君(おときみ)の婦(め)樟媛(くすひめ)、國家(おほやけ)の情(こころ)深(ふか)く、君臣(きみやつこ)の義(ことわり)切(たしか)なり」(『日本書紀』)。
「切々 ……太志加尓」「」(『新撰字鏡』)。
「品 シナ…………タシカ ヒトシ」、「密 …………タシカナリ」、「的 ………アキラカナリ タシカニ」、「切 ………タシカニ…」(以上『類聚名義抄』:「密(ミツ)」「切(セツ)」は、意思・判断の不離な凝縮・密着のようなことを表現する。「的(テキ)」は、まと(的)、ですが、ものごとを狙った際、そのものごとに当てたと言いうる、そのものごとをそのものごと足らしめていること、それがそのものごとであることに何の不信もないこと。「品(ヒン)」が「タシカ」と読まれるのは、この字は『説文』に(口が多数あり)「眾(衆)庶也」とされる字であり、世の人すべての意思であり、動揺・不信がない、ということか)。
「的(タシカニ)是(こ)れ何の仏といふことを知らず」(『法華義疏』:知っているのではないかとも思ったが(それは否定され)たしかに知らない、という意味ではない。確かな状態で、不信ない確実性をもって、知っていない)。
「『たしかにその車をぞ見まし』」(『源氏物語』:しっかりと確実性をもってその車を見ていたら(見たかった)…、のような表現)。
「『足下(そなた)の国の佐渡は最(もっとも)好(よ)い国なり。何に不足も無いが、狐が無いと云ふが、定(ぢやう)か』『いやいやそれは嘘ぢや。成程(なるほど)居(を)りやる』『いやいや。確(たしか)無いと聞(きい)たが。有るが定(ぢやう)か』『なかなか。有るわ』」(『狂言記』「佐渡狐」:自己不信を払拭しようとする「たしか」)。
「慥(たし)か昨日も東山へ行くとて通りたるに、作事の体は見えず」(『軽口露がはなし』)。
◎「たしかめ(確かめ)」(動詞)
「たしかもえ(「たしか」萌え)」。この「たしか」は、たとえば、家の中で眼鏡がなくなり、「たしかあそこへおいた」や「たしかここに入れたんだが…」と探すような、不信や疑問を払拭しようとする努力たる「たしか」。「もえ(萌え)」は芽生えること。「たしかもえ(「たしか」萌え)→たしかめ」は、そうした「たしか」が(ものごととして)芽生え、その「たしか~」たる内容を確認実行すること。たとえば、ある結果をめざした実験が成功しない。どうすれば成功するかと思案する。ふと、入れた物質がある温度を越えると反応の仕方が変ることを思い出す。「たしかそうなる…」。その「たしか」の萌えを確認実行する。温度を変えてたしかめてみる。