「たかさご(高砂)」は「たかやさきがよ(高屋先が代・世)」。台湾(タイワン)の日本語名。「が」は所属の助詞。この地は沖縄では「たかさんぐ」と言いましたが、沖縄の方言では、「おきなは」が「うちなは」になるように、「き」が「ち」のような発音になり、それが呑み込まれるように「ん」のような音(オン)になり、母音Oが母音Uになり「ご」は「ぐ」になった。
台湾に、とりわけ清時代(1644年―)以降、後の中国・福建省あたりから、漢族系人が移り住む前から(1600年代前半にはオランダ船やスペイン船などもこの方面に出没している)、この島には多くの人々・原住者が生活し暮らしていた。その原住者は高床式の家を建てて生活していた。「たかや(高屋)」とはそういう意味。「さきがよ(先が代・世)」は通常は「さきつよ(先つ代・世)」でしょうけれど、「さきつよ」は過去の世を意味するのに対し、「さきがよ」は今あるそれであり、「が」による所属表現と、霞ケ浦のそれのような、「が」の所属表現により全体が地名を表現する用法の影響により「さきがよ(先が代・世:過去の、昔の、世)」と言われた。
「たかやさきがよ(高屋先が代・世)」とは、床の高い、自分たちが昔そうしていたような(それを思わせる)、昔風の生活をしている人たちの世の中がある地、の意。これが島全体の総称になった。この表現は、もちろんこの地に漢族系人が現れる前のものであり、相当に古い。起源が分からないほど古い。「タイワン(台湾)」という名称は台湾原住者一族の名の一つに由来し、中国(清)でそれが島の総称になるのは17世紀以降のことであり、地名としてはこの「タイワン(台湾)」(「大寃、大宛、大灣(湾)」と書いたりもする。「大寃」と書いて「タカサゴ」の読みをふったりもする)という名は新しいものです。
古くは九州以南の諸島方面を漠然と「たかさご」と意識することもあったようです。「百合……りうきうゆりなり。箱前にて、たかさごと呼」(『重訂本草綱目啓蒙』。「箱前」は「はこざき」で九州・福岡の地名でしょう)。
「高砂や…」で有名な謡曲の「たかさご」は兵庫県南部にある地名。海岸で砂が小山のように盛り上がっている地形の域を「たかすなご(高砂子)」や「たかまさご(高真砂)」と言い、兵庫のこの地名はそれに由来するものでしょう。
「イヽリヤヘルマウザ((傍書)タカサコト云コト也)」(『元和航海記』(1618年):当時、この航海記筆者の池田好運におけるこの島の名は「タカサゴ」だった。「イヽリヤ」は「島」を意味するポルトガル語「Ilha」。「ヘルマウザ」は後述の「フォルモサ」系の語)。<br/>
「「Taccasanga」「Taccasannge」「Taccasango」(1615~1621) ローマ字表記の例が『イギリス商館長日記』(リチャード・コックス著)に見える」(「日本における「台湾」の呼称の変遷について 横田きよ子」(『海港都市研究』(2009年3月号:神戸大学大学院人文科学研究科海港都市研究センター):この論文は後に「台湾」と呼ばれる地の呼称に関する歴史資料が非常に詳しい)。
「我海商之往貿販其地者,占据北綫(線)尾、呼其地爲塔伽沙古,実高砂」(『臺灣鄭氏紀事』:この土地との交易を望む我が国(日本)の海商人たちは北方線の終点に占据しており…、その土地を塔伽沙古(タガシャグ)と呼んでいるが、実は高砂である(『長崎夜話草』(1720年)))。
「たかさご 今臺灣といふ…」(『俚言集覧』)。
※ 20世紀頃には、総称として、「たいわん(臺灣(台湾))」と呼ばれることが一般化するあの島には、古い時代には、それを個別的にあらわす公的印象の総称たる名はない。そもそも、島の名というものは、生活の場にそれがあり生活上言語識別の必要があれば命名が生じ、その人々にとってもそれがその島の総称になるが、そうではない人々にとってはそれは名など知らない島なのです。「たかさご」という語がいつ頃生まれたのかは不明ですが、それもそういう人々の語なのであり、奈良や京都などの公家などが用いる公的な名というようなものではない。その島の人々が「くに(国)」となり、国号を唱え、周辺にもさまざまな影響があり、といったことでもあれば、公的な個別的総称も生まれもするではありましょうが、古く、あの島ではそういうことは起こっていない。中国の古い語に「流求・琉球」(リュウキュウ)がありますが、この語は、海の連なるようにある島々はすべて「流求」であり、ある島の名というような語ではない。この語は、海上を移動し、「あれが見えたから向こうへ行けばあれがある」というように、それを目当てに流れ求めいくもの、ということでしょう。いうなれば、移動のための目印、の意。その島にも、やがて個別的に特定する総称が生まれるわけですが、「たかさご」が現地に関係する海の民などにおいてはそうであったとしても、公的なそれが生まれ出すのは、この海域にオランダ船やスペイン船があらわれ、その島の一部を基地として占領もし、鄭成功(ていせいこう)が全島を支配し、一時、島の総称を唱え、ということが起こった17世紀以降のことでしょう(「鄭成功」は父親は中国人、母親は日本人であり、子供の頃父とともに中国(明)へ行き、そこで帝につかえる。この鄭成功にかんしては近松門左衛門の人形浄瑠璃・歌舞伎『国姓爺合戦』が著名)。島の名は日本では「たかさご」ですが(※)、中国語系では「タイワン」のほか、まったく無名ですが「東都」や「東寧」もある。ヨーロッパ語系ではポルトガル語の「formosa(フォルモサ:美しい)」に由来するその系統の名がある(知らなければヨーロッパ人も名をつける)。日本国内では、17世紀以降、いわゆる知識人や文化人と言われる者たちは、中国文化に傾いている者は「琉球」と言い、「台湾」という言い方が増え、蘭学者には「フォルモサ」系の名を言う者もいた。
※ 「たかさんくん」といった言い方もありますが、これは「たかさご」が「高山国」と漢字表記され、これが「たかさんこく」とも読まれ、「たかさんぐに→たかさんぐん」にもなっているということであり、沖縄での表現「たかさんぐ」の影響もあるかもしれない。