「たきはか(たき努果)」。語中央部は無音化し「たか」になった。動詞「たき」は、「(飯を)炊(た)く」や「(香を)焚(た)く」になっているそれであり、対象になにかを発生させる他動表現(→「たき・たけ」の項)。「はか(努果)」は、「はかどる(捗る)」「はかが行く」などのそれであり、努力の成果を意味する。すなわち、「たきはか(たき努果)→たか」は、発生させ発生したその努力の成果。客観的に物的成果が現れている場合、この語「たか」はその成果の総量、総規模を意味する。その努力の成果は物的とは限らず、社会的成果・影響、も有りうる(「たかがそれだけのこと」)。その場合、「はか」は、ものごとの結果や成果、また、そこで努力は果てており、成果・結果たる限界、を意味する(後述『冥途の飛脚』)。また、(ものごとの結果や成果を得ているということはそのものごと全体を把握しているということであり)その努力全体を把握した結果状態、を意味する(後述『お花半七 京羽二重娘気質』)。漢字表記は、通常、「高」と書かれる。ここで「努果量」と書かれているのは単に別項「たか(高)」(形容詞「たかし(高し)」の語幹)との区別のためであり一般性はない。
「石高(コクだか)」。「石(コク)」は容積単位ですが、「石高(コクだか)」はその総量。とりわけ、江戸時代、米を単位にした、大名や武士のその知行(所領)における石(コク)総量。
「昔は田畠たりと云共(いへども)、当分河に成り候はば高に結び入まじき事」(『太閤記』:産出総量)。
「収穫高」、「売上高」、その他。
「『命生きようと思うて此の大事がなるものか。生きらるるだけ添はるるだけ。高は死ぬると覚悟しや』『あゝさうぢゃ。生きらるるだけ此の世で添はう…』」(「浄瑠璃」『冥途の飛脚』:結果たる努力成果)。
「死ぬるをたかの死出(しで)の山」(「浄瑠璃」『曽根崎心中』) 。
「たかが」。ことの成果・結果を提示することにより、その成果のための努力と現状の努力の比較がなされ、現状努力に対する批判的なことが言われる。「ほてつぱらめ、高が十二三貫目の荷を附ながら埒(らち)の明ぬ畜生め」(「浄瑠璃」『神霊矢口渡』:これは馬に言っている)。
「たかの知れた」。努力しなくてもその努力の成果はわかっている、あるいは、その成果のためのその努力は誰でもがなしうる。「天に二つの日なし地に二人の殿御なし。夫の爲に棄(すて)ん命塵灰芥(ちりはひあくた)、吹(ふけ)ば散る、あをけば飛ぶ高(たか)のしれた浮世の中…」(「浄瑠璃」『雪女五枚羽子板』) 。
「たかを括(くく)る」。「終には知れて御家に永く勤る事成るまいと高(タカ)をくくり」(「浮世草子」『風流曲三味線』)。「くくり(括り)」は常態と異なる部分を他と分離しまとめることですが、この表現は、生産果の非常に少ない村村は実測検地は省略され検地役人の目測と経験でその「たか」がまとめられたことに由来すると言われる。つまり、その「たか」はさしたる量ではなく、「たかをくくる」は、さしたる努力不要な努力成果と思うこと。「たかをつもる」とも言う(たいした努力の成果ではないというつもりになる)。
「『…理由(わけ)を知らざ云て聞かさう。高(たか)は恁(か)うじや。俺(をれ)はの、祇園町で升屋の深七と云て人に知(しら)れた男。俺(をれ)が抱(かかへ)の花といふ者、爰(ここ)の左膳殿が虫になつて、此屋敷へ引込(ひつこん)で有との事。きりきり出して貰(もら)うかい』」(「浄瑠璃」『お花半七 京羽二重娘気質』:社会的結果たる「たか」がこのようにして現れている、という説明がなされている)。
「刈藻(人名)心得て、高(たか)をさへ呑込めば其の上は時の才覚、手つがひ(やるべき、ことの手順)ようし給へ、と乗物に入りければ」(「浄瑠璃」『娥(かほよ)歌かるた』:物事のあるべき結果・成果)。