「しほれら(為惚れら)」。することに惚れている情況にあること。「ほれ(惚れ)」は、なにごとかに心が奪われ自分が喪失したような状態になること。
「伊加留我乃 己能加支夜麻乃 佐加留木乃 蘇良奈留許等乎 支美尓麻乎佐奈」(『上宮聖徳法王帝説』(巨勢三枝大夫(こせのみつえのたいふ)の歌):「斑鳩(いかるが)の この垣山(かきやま)の さかるきの そらなることを 君に申(まを)さな」。これはかならずしも意味の判然としない歌なのであるが、「離(さか)る木(き)の虚(そら)」と「盛(さか)る木(き)の空(そら)」がかかっているということか。これは聖徳太子への挽歌。頼りになる大樹たるあなた(聖徳太子)が離れ、往ってしまい茫然自失の状態になっている、ということと、空へと盛(さか)りひろぴろとした世界へあなたは我々を連れて行ってくださった、ということ。そうした表現がかかっているということは、「そら(空)」と「そら(虚)」は別語であり、二語があるということ。通常、「そら(空)」と「そら(虚)」は同語として扱われる)。
「…夢(いめ)のごと 道(みち)の空路(そらぢ:蘇良治)に 別れする君」(万3694:これは挽歌。この「そら(蘇良)」は物的世界上域たる「空(そら)」ではないでしょう。現実たる自我確証にならない世界。「そらぢ(蘇良治)」は現実たる自我確証にならない路。生者は死者の行く路を誰も知らない。ちなみに、「天国(テンゴク)」という概念は古代にはない。これはキリスト教系の概念)。
「たもとほり(おなじところをめぐるような)往箕(ゆきみ:行き廻)の里に妹を置きて心そら(空)なり土(つち)は踏めども」(万2541:これは「そら(虚)」であり、自分が失われてしまったような状態になっている、ということですが、「そら(空)」の意もかけられている。「往箕(ゆきみ)」はたぶん地名)。
「『御硯の墨すれ』と仰せらるるに、目はそらにて、ただおはしますをのみ見たてまつれば、ほとど(墨ばさみの)つぎめもはなちつべし」(『枕草子』:これは上空を見上げているわけではない。(墨ばさみの)つぎめをはなつ、は、墨を挟(はさ)んでいるその挟みをはずしてしまう、ということでしょう)。
「外道、此れを聞て、貴しと思ひ成(なし)て、礼拝し奉る時に、頭の髪、空(そら)に落て、羅漢と成ぬ」(『今昔物語』:なぜ落ちるかの自我確証なしに落ちた。なぜかたまたま落ちた)。
「二の人、夜、暗(そら)に相ひ会(あへ)り。共に此れを歎く」(『今昔物語』:逢うという自我確認なしに、なぜかたまたま、逢った)。
「『今まゐり侍る供御の色々を、文字も功能(くのう)も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草(ほんざう)に御覧じあはせられ侍れかし…』」(『徒然草』:なにごとかの記憶を再現することが、再現させようとする努力などなく、とりわけ、再現させるために何らかの記録を利用したりすることなどなく、申す)。
「そらに知る」。知る努力なく知る。知ろうとする努力なく未知が知られる。「其の後、智光、此の罪を謝せむが為に、行基菩薩の所に詣でむと為るに、…………菩薩、空(そら)に其の心を知て、智光の来れるを見て、咲を含て見給ふ…」(『今昔物語』)。
「そらに聞く」。現実であることの確証なく、確かに自分であるという自我の確立なく、聞く。「富士の山を見れば、都にて空に聞きししるしに、半天にかかりて群山に越えたり」(『海道記』)。
「そらに覚え」。なにごとかの記憶を再現することが、再現させようとする努力などなく、とりわけ、再現させるために何らかの記録を利用したりすることなどなく、再現する状態で記憶される。
「そらに読む」。詠むことが、その内容を再現させるために何らかの記録を利用したりすることなどなく、再現される。
「そらにし」。その内容を再現させるために何らかの記録を利用したりすることなどなく再現されることが一般的に行われる。この語は「そらんじ」になる。
「そらごと(空言)」。現実たる自我確証にならないこと。「そらみみ(空耳)」。現実たる自我確証にならない聴覚刺激。
「そらね(空寝)」。動態として「ね(寝)」という自我確証性のない「ね(寝)」。
「そらに(空似)」。似ることの根拠(たとえば、肉親であるとか)なく似ること。
「そらおそろしい」。自我喪失を感じさせ、自我対応の無効を感じさせ、恐ろしい。「今更神慮の程被計(はかられ)、行末如何と空(ソラ)をそろし」(『太平記』)。