「すひほれはら(吸ひ惚れ原)」。「すひほ」が「しほ」のような音を経つつ「そ」になり「れはら」が「ら」の一音になっている。見ていると吸い込まれるようであり「ほれ(惚れ)」になる「はら(原)」(なにもない広がる空間)。「ほれ(惚れ)」はその項(その意味は、「何かに日が現れるような状態になること。それが光のすべてとなりそれに心が奪われ(「自分」は喪失し)、人は前頭葉的な夢想的・空想的な、夢うつつの、状態になりもする」(「ほれ(惚れ)」の項))。そしてそれは、世界におけるなにもない、地も、それに付随するなにかも、雲も、なにもない空間。地は世界の下部にたしかにある物体全域であり、「そら(空)」はそれのない、世界の上域になる。気象状況が単に「そら(空)」と言われたり、建造物内の天井部や何かの上部がそう言われたりすることもある→「腕のそらに灸」、「屋のそらところどころ朽ち」。

 

「浅篠原(あさじのはら) 腰なづむ 空(そら:蘇良)は行かず 足よ(足により。足で)行(ゆ)くな」(『古事記』歌謡35:末尾の「な」は詠嘆。「…降る雪のいちしろけむな(兼名)…」(万2344))。

「矌 ……ハルカニ ソラ」「空 …………キハム オホキナリ…ソラ…オホソラ」(『類聚名義抄』)。

「ふる雪の空に消(け)ぬべく恋ふれどもあふよしなくて(相依無)月ぞ経にける」(万2333:ふる雪を見上げていると自分が上昇し空(そら)へ吸い込まれていっているような錯覚におちいる。「ふる雪の空に消ぬべく」とはそういうこと。「相依無」は、あふよしなしに、と読まれることが相当に一般的なようであるが、なくて、は、なくとへ(無くと経))、であり、無いことが思念化され、それへの思いが表現される。なしに、は、逢わずに年月が経過したことがただ客観的に表現される。「なくて」という佐佐木信綱などの読みの方がよいと思われる)。

「冬ながら そらより花のちりくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ」(『古今集』)。

「『雨など降り、空(そら)乱れたる夜は、思ひなしなることは(思ってしまっていることが)さぞはべる(そのようにあったりする(悪い夢などになったりする))。軽々しきやうに、思し驚くまじきこと』」 (『源氏物語』:この「そら(空)」は天候、気象状況、空模様)。

「旅の空(そら)に助け給ふべき人もなき所に…」(『竹取物語』:この「そら(空)」は、その情況世界、のような意)。

「…旅に行く君かも恋ひむ 思ふそら(蘇良)安くあらねば…」(万4008:(それが)恋ふているのは旅(たび)行(ゆ)くあなたと思う空(そら)は安らかなこともなく。つまり、世界があなたを恋ひ、去っていくあなたに安らかな思いではいられなくなっている、という表現。「そら(空)」は物的環境たる世界であり「そのとき」たる人の世界。「恋ふるそらやすくしあらねば」、「思ふそらやすくあらねば」、「歎くそらやすけくなくに」といった表現はほとんど慣用的表現。この部分、一般に、「旅行くあなたも私を恋しく思っておられるだろうか。心安らかではありません」といった解釈がなされている)。

「あをぞら(青空)」。「そらもよう(空模様)」。