◎「そも」

「そ」は何かを指し示す→「そ(其)」の項(7月4日)。問題は「も」ですが、一般的に言えば、これはなにかやなにごとかを思っている。そこに何らかの思いがこめられている→「も(助)」の項。そして、それは「そ」で指示されたなにかにかかわることがただ思われていることもあれば(「それも」のような意)、そこに疑問が湧いていることもある(「そもそも」のような意)。

「(亡くなった人を)思ひ出(い)でて偲(しの)ぶ人あらんほどこそあらめ、そも(それも:亡くなった人を偲(しの)ぶ人も)またほどなく失せて(亡くなって)、聞き伝ふるばかりの末々は(ただ話に聞くだけの後の人々は)、あはれとやは思ふ(感銘深く思うだろうか(そんなこともないだろう))」(『徒然草』)。

「すだれ卷き上げてなどあるに、この時、過ぎたる鶯の、鳴き鳴きて……人く人くとのみいちはやくいふにぞすだれおろしつべく覺ゆる。そも(それも)うつし心もなきなるべし。」(『蜻蛉日記』)。

「不思議やな 参詣の人々多き中に けしたる(化(ケ)したる:姿形を変えた)宜禰(きね)御幸(みゆき)の先に進むぞや そも(そもそも)御身は何(いづ)くより参詣の人ぞ」(「謡曲」『金札』)。

「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)より詣(まう)でけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。 さて、かたへの人にあひて、『年比(としごろ)思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも(それにしても)、参りたる人ごとに(参詣した人はみな)山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず』とぞ言ひける。 少しのことにも、先達(せんだち:案内)はあらまほしき事なり」(『徒然草』:石清水八幡宮の本殿は山の上だが、その麓(ふもと)の寺社だけを見て『これが石清水八幡宮か』と満足して帰ってしまったということ)。

 

◎「ぞも」

「ぞ」は強調的に指し示す。「も」は詠嘆。全体は倒置表現であり、「ぞ~連体形」のいわゆる係り結びになっている。つまり、「ぞ~連体形」の係り結び表現に詠嘆の「も」が入っている表現。「ぞも」以下が省略されもする。

「…いつの間にぞも我が恋ひにける」(万3264:いつの間にだ、まぁ…、私が恋してしまったは)。

「…流らへ散るは何の花ぞも」(万1420:何の花ぞも流らへ散る、の「ぞも」以下「流らへ散る」は省略されている)。

 

◎「ぞめき」(動詞)

「そそめき」。「そそ」は「そそかし」(形シク)の項(7月18日)。何かに促されるように動態が発動すること。「めき」は、「春めき」などのそれですが、何かの発生を思わせる情況になること。全体的に動態発動が何かに促されるように次々と起こる状況であること。

「人ハ佳説トテソソメケトモ我ハナヲカナシイソ」(『三体詩絶句抄』) 。

「ぞめく 驟と書く。是もさわぐ貌(かたち)なり」(『色道大鏡』)。