「そぞおろ(其ぞ疎)」。「そぞ(其ぞ)」は「そ(其)」が何かを指し示しつつ「ぞ」は助詞であり、この助詞は特定強調的な効果がある。「そぞ」はの「それぞ」という表現。その「そぞ」が「おろ(疎)」(構成に空虚感がある)であり、判然としないことが「そぞおろ(其ぞ疎)→そぞろ」。それが疎(おろ)だ、疎(おろ)とはそれだ、という表現。あちこちに、穴があくように空虚があり、確定性・明確性・明瞭性がない。したがって、信頼がなく不安であったりもする。動態や事象などの原因・動機・根拠・関係などに関し言う。それらに信頼となる確かさ明瞭さがない。原因や根拠が不明確であることはなぜそうなるのかわからず自然に、という意味にもなる。「そぞろ歩き」(動態目的にあちこちに虚ろな空虚がある印象であり、確定感、それによる信頼感にも欠ける)。正体に関しても言う(正体が定まらない)。「気もそぞろ」。
その動詞化「そぞろき」(そぞろになる)、シク活用形容詞「そぞろはし」(そぞろ負ひああし:そぞろになり嘆声がもれる)もある。
似た語に「すずろ」があり、「すずろ」はそのことを理性的に維持する理由もないこと。この語は現象の原因に確定性がないことと意味は似ており、『伊勢物語』のある部分が諸本によって「すずろ」になっていたり「そぞろ」になっていたりする。
「御心しらひの尋常(よのつね)ならぬを、尼上はそぞろなる心地し給へど」(『浜松中納言物語』:「心(こころ)しらひ」は配慮や気づかひをすること。それにより「そぞろなる心地」になったとは、(感動し)、思考のあちこちが空虚化するような、冷静に落ち着いた状態ではいられない状態になった)。
「是より後は弥(いよいよ)合戦を止ける間、諸国の軍勢唯徒に城を守り上て居たる計にて、するわざ一も無りけり。…………軍(いくさ)も無てそゞろに向ひ居たるつれづれに、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城共を呼寄て、様々の遊をぞせられける」(『太平記』:軍が、意味もなくそこにいるような状態になった)。
「いなそれは不覚(そぞろ)なり。……見もしらぬ人に伴(ともなは)れたまはん事、究(きはめ)てよろしからじ…」(『椿説弓張月』:対応や対処に「おろ(疎)」たる手抜かりがある)。
「不覚(そぞろ)に落涙し」(『椿説弓張月』:心情に理性的コントロールの及ばぬ「おろ(疎)」があり、それにより涙があふれてしまう。『椿説弓張月』では「そぞろ」は「不覚」と書かれ、「すずろ」は「漫」と書かれている。「漫(マン)」の字は、長く伸びてだれた印象になるということでしょう)。「漫(すずろ)に苑(その)に立出(たちいで)木(こ)の子(み)を拾ひ」(『椿説弓張月』:だからそうある、という、そのことを理性的に維持する理由もなく、ということ)。
「あつはれ法師。よひ法師とそゝろに身をそほめにける」(「幸若」『ほり川』:これは、確信性なく、ということ)。
「うち群れつつをる上達部の随身などやうの者どもさへ……かかる世の中の光(敦成(あつひら)親王)のいでおはしましたること(産まれたこと)を、かげにいつしかと思ひしも、およびがほ(思いがとどいた、願いがかなった表情)にぞ、そぞろにうち笑み、心地よげなるや」(『紫式部日記』:これは上記の「そぞろに落涙し」と同じであり、確かな理性的コントロールは及ばず、思わず、自然に、笑みがあふれる。敦成(あつひら)親王は一条天皇第二皇子、母は藤原道長の娘。つまり敦成(あつひら)親王は藤原道長の孫皇子。これは平安時代における、藤原氏全盛の象徴のようなできごと)。
「いと物おそろしく、そそろなるめをみるべきにやと…」(『あさぢが露』:なにが起こるかわからない不安定ななにごとかが起こる)。
「去んぬる治承四年の頃取り出だして奉たりけるは、実の左馬頭(源頼朝の父、義朝)の首にはあらず、謀反を勧め奉らんためのはかりことに、そぞろなる古い首を白い布に包んで、奉たりけるに…」(『平家物語』:帰属の不安定な、誰のものとも明瞭にならない首)。
「道々の物の上手のいみじきことなど、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくにいへども、道知れる人は…」(『徒然草』:根拠も確かさもなく神のごとく言う)。