◎「そこひ」

「そこおひ(底追ひ)」。底(そこ)を追求した域。究極を表現する。「天地(あめつち)のそこひのうらに」(万3750)と言ったりする。

「天地(あめつち)のそこひ(曽許比)の奥(うら)に吾(あ)がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ」(万3750)。

「いで、この容貌(かたち)のよそへ(比較)は、人、腹立ちぬべきことなり。よきとても、物の色は、限りあり(ものの、人をひきつける力は有限だ)、人の容貌(かたち)はおくれたるも(見た目はおとっていても)、(人は)なほそこひあるものを(人のそれは無限だ)」(『源氏物語』:「よそへ」は、ある経験経過を他の経験経過としてみる。その場合は経験経過(A)と経験経過(B)の比較も起こる)。

 

◎「そさう(粗相)」

「ソサウ(疎操)」。「操(サウ)」は「あやつり」(自分で自分をあやつる。つまり、理性的コントロール)。「ソサウ(疎操)」は、理性的コントロールが「疎(ソ)」(まばらで、あらく、手抜かりがある)であること。不完全。不注意。手抜かり。漢字では「粗相・疎相・麁相」といった書き方をする。

「法然上人云。一念十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相(そさう)に申(まうさ)ば、信(しん)が行(ぎやう)をさまたぐるなり」(『一言芳談抄』:完全さに欠ける念仏は修行のさまたげとなる)。

「『今日(こんにち)是へ持て参たは麁相(そさう)な浅鍋で御座る』」(「狂言」『鍋八撥』:さまざまな意味で、完全さに欠ける鍋)。

「扇なども、給はせたらむはそさうにぞあらむかしなど思ひて、さるべき人々にいひつけ、わが繪師に書かせなどしたる人は…」(『栄花物語』:他から給(たま)わった(いただいた)扇をさしあげたのでは人との関係のあり方として不完全な、手抜かりのあるものになるだろうと思って…)。

 

◎「そこば」・「そこばく」・「そこら」・「そこらく」に関しては「こきだく(許多く)」の項(2022年2月5日)。すべて、程度の激しさを表現する。