「しほきよにはひ(潮来世に這ひ)」。潮(しほ)が来(き)、世に這ふ、とは、津波による惨状が起こることを表現している。これが、世界を、なにもかもを、台無しにすることを意味する。「世(よ)そこなひ」(世界を台無しにし)。「人(ひと)そこなひ」(人間を台無しにし)。『源氏物語』「須磨」に「『………』『高潮(たかしほ)といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど…』『いと、かかることは、まだ知らず』と言ひあへり」、つまり、『「「たかしほ」というものに、どうすることもできず、人はそこなわれる」とは聞いているが…』、『そうしたことは私は経験がない…』、と(人々が不安気に)言いあっている、という記述がありますが、高潮(たかしほ:津波)が襲い→そこなひ、という伝承表現がまだその頃には生きていたということでしょう。なにもかもが台無しにされることが津波に襲われた情況で表現されたわけです。その表現の伝承は津波への後世への警告にもなる。それがいつなのかはわかりませんが、遠い昔に津波があり、そうした表現がなされ伝承された。意味は、津波に襲われた状態にすること、根底的に何もかもを台無しにすること。動詞連用形についた場合は、その動態で効果が台無しになること。「みそこなひ(見損なひ)」。「いひそこなひ(言ひ損なひ)」。「できそこなひ」。
「此(これ)皆(みな)良(よ)き田(た)なり。霖(ながめ)旱(ひでり)に經(あ)ふと雖(いへど)も損傷(そこな)はるること無(な)し」(『日本書紀』)。
「『かくはせぬことなり。上達部のつき給ふ倚子(いし)などに女房どものぼり、上官などのゐる床子(さうじ)どもをみなうち倒(たふ)し、そこなひたり』」(『枕草子』)。
「心地そこなひてわつらひける時に…」(『古今集』詞書:「機嫌(キゲン)をそこなふ」という表現もある)。
「『我は河伯神の使に江湖(がうこ)へ行くなり。それが飛(とび)そこなひてこの溝におち入たる也…』」(『宇治拾遺物語』「後の千金の事」:これは鮒が言っている)。
◎「そこね(損ね)」(動詞)
「そこなひ」は「しほきよにはひ(潮来世に這ひ)→そこなひ」。この表現に他動表現の要請がはたらき「しほきよにはへ(潮来世に這へ)→そこなへ」。この「そこなへ」が語尾が一音化し「そこね」。つまり、「そこなひ(しほきよにはひ:潮来世に這ひ)」は語自体は自動表現なのですが、巨大な潮が全てを台無しにする、という他動的な用い方がなされるわけであり、その要請がはたらき「そこね」が生じた。しかしそれは「そこなひ」の語尾E音化による客観的対象を主体とする自動表現にもなる(「指がそこね」(指が傷つき)・「指をそこね」(指を傷つけ)、どちらの表現もある)。つまり、「そこね」の意味は「そこなひ」と同じであり、ものであれことであれ、なにかが台無しになることですが、自動表現も他動表現もある。動態についた表現がなされることも「そこなひ」に同じ→「やりそこね」「言ひそこね」。
「『私の琵琶はちとそこねてやくにたちませぬ』」(「狂言」『伯養』:これは自動表現)。
「婢女(をんな)の衣服(きもの)を損(そこ)ね家内の者を騒がして商(あきな)ひを妨(さまた)げたる償ひ金を出すべしと…」(『西洋道中膝栗毛』:これは他動表現)。