「センなし(詮無し)」。「詮(セン)」(※)は、『説文』では「具也」(具(そな)わる、全(まった)く)と書かれるような字であり、中国語では言葉が十分に備わっていることを意味するのですが、日本では、その文字の状態から、全的言葉、のような意で用いられ、それは、それが無いという否定表現で言われ、「詮(セン)無(な)し」は、全的に言葉が無い、もはや言葉も無い、のような意味で言われる。努力がなんの効果も生じずそれを肯定する言語努力さえ起らず言葉を失うような事態が起こっている。それらの一般的表現としては、「せんないこと」。

※ 「詮(セン)」にかんし、「ショセン(所詮:「諸詮」とも書く)」は、全言語活動の終局的至りとして、事態の結果としての終局、最終的には結局、のような意で言われる。中国語の「所詮」は、解釈するところの、説明するところの、といった意味(「詮」が、言葉を完全にそなえること→説明すること、を意味するわけです)。

「『哀れ詮なき御企てかな…』」(『保元物語』:これは新院(崇徳院)による「謀反」の報を受け徳大寺内大臣実能(さねよし)がそう言った。「保元の乱」(1156年)は近衛天皇の崩御をきっかけとした崇徳側と後白河側の争いとして起こっている。ただし、その遠因は白川天皇(法王)による長い院政時代の人間関係に由来し、絶世の美女と言われた美福門院という女性がからんだりもし、「保元の乱」(1156年) 「平治の乱」(1160年)は「平安時代」を終わらせる。この乱の過程で平氏や源氏が勃興する)。

「皆人(みなひと)の興ずる虚言(そらごと)は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとゞ(さらに一層)定まりぬべし」(『徒然草』:これは、言っても意味のないこと、のような意)。

「よき人は怪しき事を語らず。かくはいへど、仏神の奇特(きどく)、権者(ごんざ)の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言(そらごと)をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」などいふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏(ひとへ)に信ぜず、また、疑ひ嘲(あざけ)るべからず」(『徒然草』:これも、言っても意味のないこと、のような意なのですが、その「意味ない」の意味が少しことなる)。