◎「せみ(蝉)」

「せみ(背見)」。木に止まりながら、前をではなく、背を、背の方向を、見ている印象のもの、の意。昆虫の一種の名。「せび」という言い方もありますが、これは「せみゐ(背見居)」か。

この語の語源は、一般に、鳴き声の擬音と言われている。

「石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京師(みやこ)しおもほゆ」(万3617)。

「蝉 セミ」(『類聚名義抄』)。

「蝉時雨(せみしぐれ)つめたい水の湧(わく)ほとに (湖中)」(「俳諧」『発句題叢』夏中:「しぐれ(時雨)」はその項・再記)。

 

◎「しぐれ(時雨)」(再記)

「しきふるいえ(頻きふる癒え)」の音変化。動詞「しき(頻き)」(2022年9月17日・「しきりに~する」などの語になっているそれ)と「いえ(癒え)」(2019年10月13日・安堵すること)はそれぞれの項。「ふる」は動詞「ふり」の連体形ですが、この「ふり」は、「ふり(触り)」も「ふり(生り・振り・遊離り)」もどちらも意味するような「ふり」です(「ふり(触り)」「ふり(生り・振り・遊離り)」に関してはそれぞれの項)。「ふり(触り)」は、後世では「ふれ(触れ)」が一般的ですが、古くは「ふり(触り)」の四段活用もあった。意味は、感覚的な接触を表現し、影響を与えること。「ふり(生り)」は自然発生すること(「魂(たま)ふり」)。「ふり(遊離り)」は、彼女にふられ、や、気が狂(ふ)れ、などにあるような、遊離が生じること。「しき(頻き)」は動態密度がますこと(→その項)であり、「いえ(癒え)」は安堵すること(→その項)。そうした意味での「しきふるいえ(頻きふる癒え)→しぐれ」は、動態密度が増しつつ触れ(感覚的感じられ影響され)自然発生し遊離する癒え、ということなのですが、どういうことかというと、客観世界から、自然界から、「いえ(癒え)」が日々密度を増しつつ触れる・感じられる。その癒えに抵抗感もある。しかし、大いなる自然の意思としてその癒えは自然発生し、人は自分の癒えを遊離しその自然の癒えへ安堵していく…。ということであり、これが、夏の、活発な躍動感のある癒えから、冬の沈静化して穏やかな癒えへと変化していくことを表現する。つまり、秋になり秋が深まることを表現する。この語が、「しぐれのあめ(しぐれの雨)」とも言われ、そうした癒えの深まり、癒えを沈静化させ穏やかなものとすることに深い影響を与える世界を現すできごと、その秋の深まったころの雨、世界から明るさがなくなり、雪もまじるような冷たい雨、を意味するようにもなる(その影響により、「しぐれ」は慣用的に「時雨」と書かれるようになっている)。「せみしぐれ(蝉時雨)」も、やがてそうした癒え・安堵の深まりを感じさせるということ。「蝉時雨つめたい水の湧(わく)ほとに (湖中)」(「俳諧」『発句題叢』夏中)。

 

「…九月(ながつき)の しぐれ(四具礼)の秋は 大殿(おほとの)の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて 靡(なび)ける萩を…」(万3324:「みぎり」は、あるなにかの他のなにかとの境)。

「しぐれ(鐘礼)の雨(あめ)間(ま)なくしふれば三笠山(みかさやま)木末(こぬれ)あまねく色づきにけり」(万1553)。

「夕されば雁(かり)の越え行く龍田山しぐれ(四具禮)に競(きほ)ひ色づきにけり」(万2214)。

「しくれつゝもみつるよりも言の葉のこゝろの秋にあふそ侘(わび)しき」(『古今集』:「もみつ」は紅葉することを意味する動詞)。

「偽(いつは)りのなき世なりけり神無月たか(誰が)まことより時雨(しぐれ)初(そめ)けん」(『続後拾遺集』冬:「しぐれ」が偽(いつは)りの無い世であることをあらわしているという。これは藤原定家の歌)。

「Xigure(シグレ).  Chuva do inverno, ou outono(冬や秋の雨)」(『日葡辞書』)。