「せめみイレウ(攻め身衣料)」。身を攻めるように身体に沿って作られる衣服、の意。和服のようにゆったりと身を覆うのではなく、身を攻めて追い詰めるように体形に沿って裁縫される服。この語は、幕末そうとう末期から明治最初期ころに、裁縫を仕事としている人から生まれたものでしょう。それ以前には、のちに一般に「せびろ(背広)」と言われるようになる衣服は「わりばおり(割羽織)」(『西洋衣食住』(慶応3(1867)年) :割羽織は背中が割れている羽織であり、乗馬の便などを考え、この語は昔からある)などと言われましたが、「せびろ(背広)」は、特別な語の必要性から意図的に作られた語かもしれない。これは19世紀末期以降普及していった上衣であり、接触・交渉が拡大したヨーロッパ・アメリカに影響されつつの背広形の衣料は1800年代後半からあるわけですが、「せびろ」という語が広く普及していったのはその服が普及していった1800年代最末期からです(下記※)。漢字表記は当初から「背広」のようです。いうまでもなく、これは当て字。「せびろ(背広)」という語の語源にかんしては諸説ある。

※ 1800年代後半、明治維新後の日本と朝鮮の外交関係には亀裂が生じていた。朝鮮側が、外交文書が格例に合わない(中国的な格式に合わない)といったことのほか、その(外交使節の)服装も例に合わないといったことも言い、日本にその是正を要求し、外交文書の受け取りも拒否していた。当時、日本の外交使節は髪型も江戸時代のように結ってはおらず、服装も背広形の洋装だった。

 

「背廣(せびろ)裁方」「セヒロの裏ざし」(『男女西洋服裁縫独案内』(明治20(1887)年):これは「背廣(広)」に平仮名で「せびろ」と読み仮名がふられており、「セヒロ」という片仮名表記もある。ほかに「袴」に「ヅボン」(「ずぼん」の項・5月11日)、「短胴服」に「チヨツキ」と片仮名で読み仮名がふられ、「上衣」に「マンテル」や「うはぎ」とふられ、「マンテル」「ジヤケツ」といった片仮名書きもある)。つまり、幕末から明治以前には、21世紀に言う「ずぼん」は袴系の、「背広」は羽織系の、表現をしていたわけであり、後のサラリーマンのスーツ姿は江戸時代で言えば羽織袴を着た状態なわけです。女のスーツ姿は訪問着のカジュアルなもの、といった程度のものか。留袖となると、スーツよりも格式がある。