◎「せはり」(動詞)

「せはやり(せ逸り)」。「せ」は動態勢力昂進を表現する(→「せ(瀬)」の項)。「はやり(逸り)」は心情が昂進すること。つまり、「せはやり(せ逸り)→せはり」は、勢力昂進し心情が昂進した動態を現すこと。

「せはる乳飲み子」(乳をほしがる)。

「鯉がせばってえさを食う」。

 

◎「せびらかし」(動詞)

動詞「せびり」の「~かし」による表現。「せびり」はその項。「~かし」は「おびやかし(脅かし)」などのそれ(→「かし」の項・2021年2月24日)。「せびらかし」の意味は、拒否できないような、抗(あらが)い得ないような、影響作用を及ぼすこと。人を散々責めたり、人に要求したり、人にしつこく強引に何かをしたりする(からかう、ひやかす、いやがらせする、といったことも言う)。音(オン)は「せぶらかし」にもなる(この点にかんしては「せびり」も参照)。

「(子供たちが)こゝへは湯を呉(くれ)い、かしこへは茶をくれい、身共は水を呉い、と申しまする。夫々(それぞれ)に汲(くん)で出しますると、某は茶と云たに湯をくれた、こゝへは湯といふたに水をくれた、イヤ、あつうて舌を焼たは、ぬるうてむせたはのと申て、私をせびらかしまする」(「狂言」『なはなひ』)。

「今日は島屋で彼(か)の田舎のうてずにせびらかされて天窓(つふり)が痛い」(「浄瑠璃」『冥途の飛脚』:この「せびらかされ」の内容は、本書の少し後に書かれる、「田舎の客が見請(みうけ)の事、今日も今日とて島屋にて、理屈を詰(つめ)てねだれ言(ごと)、腹が立つやら憎いやら」というもの。嫌(いや)でたまらない男に身請けをしつこく強請されている。「うてず」は、納得いかないやつ、のような意(→「うて(打て)」の項・下記に再記))。

「此(この)梶原親子はけつき(血気)つよくき(気)が上へ取のぼり、義経公をざんげん(讒言)しとが(科)なき女をせぶらかすはあたま(頭)へち(血)があがつて上しやう(昇)したると覚えたり」(『佐藤忠信廿日正月』)。

「Xebiracaxi(セビラカシ), ſu(ス),aita(サイタ).  ………………no Ximose(シモセで) diz,Yeracasu(シモセではYeracasu(エラカス)と書く)」(『日葡辞書』:「Ximose(シモセ)」は「下瀬(しもせ)」か。世の中の下流)、「Yeracaxi(エラカシ), ſu(ス),aita(サイタ). ………………mas a propria palaura be Xebiracasu(適切には、セビラカス)」(『日葡辞書』:「Yeracaxi(エラカシ)」は「えらくはし(偉食はし)」でしょう。偉そうな態度を食わせる。それを食わなければ生活できない状態にしてしまう)。

 

◎「うて(打て)」(動詞):再記

「剥ぎ」(他動)・「剥げ」(自動)のような、「うち(打ち)」(他動)の語尾E音化。そのE音によって外渉性(外的対象・環境との係わり感)が生じるのですが、「うち(打ち)」の「う」は「え(得)」がU音化した動態表現性があり、「う」自体に外渉感があり(「うち(打ち)」による帰属の自己認容の思念的確認は常に「何か」に対しなされるということ。常に「何か」の帰属が確認されるということ)、「うて(打て)」はその外渉感にもう一度外渉感が生じた表現になる。外渉的な動態がさらにもう一度外渉的な動態となった場合どういうことが起こるかというと。反転するような動態が表現され、それは受け身表現となる。すなわち、「うち(打ち)」の自動表現「うて(打て)」が「うち(打ち)」の受身表現「うたれ(打たれ)」と同じような意味になる。その場合、動詞「うち(打ち)」は何かを現実化することを意味し、その受け身(現実化される)、とは、逆に言えば自分の現実感がなくなったり衰弱したりするわけであり、「うて(打て)」は、存在感が敗北するというか、負けたり、気落ちしたり、植物ならしおれたり、何かが腐ったりする。現実に物的に打たれることも意味する。また「心をうち(圧倒し)」のような意味でその受け身「うて(打たれ)」が言われた場合、その否定の「うてぬ(顔)」は、圧倒されない、もっともだと思われない、というような(顔)。「うてず」は、納得いかない奴(やつ)、のような意。

「圧(おし)にうてて死にけり」(『太平記』:「おし(圧し)」は罠。それに押しつぶされるような状態になった)。

「又よりあひて取るに、此のたびは壇光うてにけり」(『古今著聞集』:力や存在感において圧倒された)。

「春風や広野にうてぬ雉の声」(「俳句」:広野に圧倒されない、負けない)。

「あはれ、世にもあひ、年なども若くて、みめもよき人にこそあんめれ。しき(式:式神)にうてけるにか。この烏は式神にこそありけれ」(『宇治拾遺物語』:式神の威力に負けてしまったような状態になっている)。

「人中へ出してうてぬ御姿」(「浮世草子」:圧倒され存在が敗北することのない姿)。

「嶋主一円うてぬ顔」(「浄瑠璃」)。

「壬生(みぶ)村で名うてにうてた器量よし」(「浄瑠璃」:この「なうて(名打て)」は、人々が名に圧倒される。つまり、評判の、のような意→「なうての詐欺師」)。