◎「せち(切)」

「切」の音(オン:漢音、セツ。呉音、セチ(※))。「切(セツ・セチ)」の意は切(き)ったり、刻(きざ)んだりということですが、削(けづ)るように切片を切り出すことも「切(セツ・セチ)」であり、『廣韻』に「迫也」と書かれるような意味にもなる。急迫の事態が起こればそれは「切(セツ・セチ)」であり、情動が高まり思いが切迫すれば「切(セツ・セチ)」なる思いになる。

「年ごろむげに忘れはて侍りしに、せちなりし宣旨の恐ろしさに、からうじて思ひ給へいでて、一手(ひとて)つかうまつりしを…」(『宇津保物語』)。

「太政大臣(おほきおとど)の、御男(をとこ)の、十ばかりなる、せちにおもしろう舞ふ」(思いが窮まるように見事に)、「ものの興、せちなるほどに、御前に、みな、御琴ども参れり」(以上『源氏物語』・どちらも「藤裏葉」)。

「 「さらぬだにあやしき程の夕暮に荻吹くかぜのおとぞきこゆる」 と(琴を)ひきたりし程こそせちなりしか」(『大鏡』:思いがきわまっている)。

「(藤壼は)いと、若ううつくしげにて、せちに隠れたまへど、(源氏は藤壺を)おのづから漏(も)り見たてまつる」(『源氏物語』)。

※ 「セツ」の音(オン)では。「大切(タイセツ)」、「親切(シンセツ)」、「切々(セツセツ)と」、「懇切丁寧(コンセツテイネイ)」等が言われる。

※ 「切」には、「イッサイ(一切)」のように、「サイ」の音もある。「一切(イッサイ)」といった言い方は仏教界から生じているものですが、この「サイ」は呉音と言われている。21世紀の中華人民共和国音では尻上がりで「シエア」のような音。

 

◎「せつなし(切なし)」(形ク)

「セチヒユなし(切譬喩無し)」。「せち(切)」はその項。「ヒユ(譬喩)」は、並べ教え言う、という意味であり、譬(たと)える、ということ。「セチヒユなし(切譬喩無し)→せつなし」は、「セツ(切)」(→「せち(切)」の項)であることに関し比(くら)べる例や譬(たと)える例が無い、それほどに、非常に、「セチ(切)」だ、ということ。心情・思いが、込み上げ切迫し、非常な状態、どうしようも無いような状態、極まった状態、になっていることを表現する。そうなる原因は、個人的な恋情による誰かへの思い、社会的事情による生活状態(とくに経済的困窮)その他、さまざまですが、身体状態が過激な運動などで急迫した状態にあることを表現したりもする。

「諸国の大名かうけ(高家)たちの其中に、義経に心ざしのせつなき人もあるらん」(「幸若舞」『清重』:義経への思いが(好意的に)極まっている)。

「吉三郎せつなく『私は十六になります』と言えば、お七『妾(わたくし)も十六になります』…」(「浮世草子」『好色五人女』:恋情が極まっている)。

「其瓢箪(へうたん)ありや、ないにおいてはをのれ、とせんぎ(詮議)つめられ、(刀を盗んだ者は)折(セツ)なく川中(かはなか)に飛込みおのれと自滅いたせり」(「浮世草子」『武家義理物語』:犯行が露見明白となり立場が極まった(生きていても斬られ殺される))。

「『夫(それ)に死去(なくなつ)てまだ一年も立(たた)ねへのに、何程(なんぼ)切(せつ)ないからと言つて其様(そん)な事(こと:娘が妾や囲いものになるということ)に成(なつ)ちやァ、爺(おや)の遺言(いひごん)を背(そむく)様(やう)な物じやァないかね』」(「人情本」『閑情末摘花』:生活が困窮している)。

「『誠(まこと)にモウモウどんなに急(いそい)で来升(きまし)たらふ。アゝ切(せつ)ない』」(『春色梅児誉美』:身体状態が過激な運動で限界をむかえそうになっている)。

(参考) 「譬喩」(『万葉集』巻十一・万2828以下の題書:『万葉集』には巻三その他にも「譬喩歌」といった語がある。これらの読みは当初から「ヒユ」であろう)。