◎「せがれ(伜)」

「すゑがれ(末枯れ)」。後を継ぐのがこんな者で末(すゑ)は栄えず枯れる、の意。これは自分の子供を謙遜した謙譲表現。後には息子(おとこ)を言うことが一般になりますが古くは女(娘)も言った。意味発展的に、年少者・若者を言ったりもする。『日葡辞書』には「人がへりくだって自分のことを言う時に使う言葉」ともある。

「いまた十二十三のせかれ二人何れも男子にて…」(『信長公記』(天正五年八月十七日):この「せがれ」は親の謀反により処刑された人質たる子であり、謙称ではなく、蔑称か)。

「されども此儘有りては、三人供に渇命に及べば、一人ある躮(せがれ)が後々の為めにもよし、奉公の口あるこそ幸なれ…」(「浮世草子」『世間胸算用』:この「躮(せがれ)」は少し後で「おまん」と呼ばれており、娘)。

「せがれ 中以下にて男女の子供惣領末女の差別なくせがれと云」(『浪花聞書』)。

「そうじて倅より山寺にすみ、つねに坊主頭を剃りつけて…」(『きのふはけふの物語』:この「倅(せがれ)」は年少者一般の意であり、自己謙称)。

 

◎「せき(関)」

動詞「せき(塞き)」の連用形名詞化。何かの流通を阻害する人的・物的施設。道の要路の要地におかれたのが「関(せき)→関所」。川の流れに阻害的に働くのが「堰(せき)」。相撲の「関・大関」は他の力士の進行を立ち塞がるように阻害・阻止する者、つまり強い者。

「過所(くわそ)なしに関飛び越ゆるほととぎす多我子爾毛止(や)まず通はむ」(万3754:「過所(くわそ)」は通行証のようなもの。「多我子爾毛」は難訓とされる。普通に読めば、たがしにも。語音数も合わない。これは、「多」は、「夕(ゆふ)」が「多(おほ)い」、あるいは重なる、といことで、幾夜(いくよ)、でしょう。全体は、幾夜(いくよ)が死(し)にも。「が」は所属を表現する助詞であり、「夜が死に」が、主語たる夜が死ぬわけではなく、「死に」が帰属する状況を表現し、夜の死に、夜における死に、を表現する。ホトトギスは夜に渡り鳴くような鳴き方をし、関で咎められ殺されても、幾夜死んでも、あなたに会いに行く、ということ)。

 

◎「せき(咳)」

「セッキ(切気)」。呼気を切断するような呼気、およびそうする動態。喉頭などの異物排除のためその他意図的に行われることもあり、喉頭や気管支の刺激により発作として起こることもある。この語は、古くからある「せきあげ(塞き上げ):心情昂奮が塞(せ)かれつつ昂(たか)まり限界となり、むせび、呼吸が困難になったかのような状態になったりもする」といった表現にも影響されつつ普及した。

「セキ(痎)ガオコツテ しはぶきやみにて」(『詞葉新雅』(寛政4(1792)年))。