「せ」の外渉的動感が環境にある場合、それは障害感となり、動態の自由運動を障碍する。S音は動感を表現し、E音の外渉性は受け身となり障碍する。「Aもせに」(Aも狭(せま)いと思われるほど、山が自己の膨張を妨げ邪魔なほど、Aからあふれるほど)という慣用的な言い方がある。
「山もせ(世)に咲けるあしびの…」(万1428)。
「…夕潮(ゆふしほ)の 満ちのとどみに 御船子(みふなこ)を 率(あども)ひたてて 呼びたてて 御船(みふね)出でなば 浜も狭(せ:勢)に 後(おく)れな居(をり)と(後奈居而)…」(万1780:最後の部分は一般に「美」などの脱字があるとしてそれを補い「後奈美居而(後(おく)れ並(な)み居(ゐ)て)」と読まれている。「な言ひ」(言ってはならない)といった表現がありますが、この「な居(を)り」は、「な」が、禁止(他者への否定)ではなく、否定一般を表現するものであり、居(ゐ)られない、居ても立ってもいられない、という意味でしょう。最後の「而」が「と」と読むか?、通常は「て」ではないのか、という問題に関しては、同じ問題が万2211の「解登結而」にありますが、意味として「と」であっても問題はないでしょう(「て」と読むことも「而」の音というわけではない)。「後(おく)れな居(をり)と」は、取り残される自分にいたたまれぬ思いになって、のような意。「て」と読めないこともないのですが、表現が客観的になり、歌がつまらなくなる)。