◎「すゑ(据ゑ)」(動詞)
「すひゆうゑ(吸ひゆ植ゑ)」。「ゆ」は経験経過を表現する助詞。「うゑ(植ゑ)」はその項(2020年8月8日)。「すひ(吸ひ)」の経験経過のある「うゑ(植ゑ)」とはどういうことかというと、たとえば「AをBにすゑ」の場合、Bの吸ひ、吸引、の働いている「うゑ(植ゑ)」だということ。「AをBに「うゑ(植ゑ)」はそれによりA・Bは全体として現れ存在化する。Bの「すひ(吸ひ)」ははたらいていない。それにより、どちらもAはBに固定するが、「うゑ(植ゑ)」よりも「すえ(据ゑ)」はA・Bは遊離している。「AをBにおき(置き)」は、「おき(置き)」の「お」のO音の目標感、遊離した存在感によりAは遊離した独立した存在感をもってBに関係する。「おき(置き)」の場合はAは客観的な存在感を維持しつつただBに位置をしめる。
「哭沢(なきさは)の神社(もり)に三輪(みわ)据ゑ(すゑ:須恵)祈(の)み祈(の)めど(雖禱祈)我が王(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ」(万202:「三輪(みわ)」は甕(かめ)にいれた酒。それをすえた。これは挽歌。三句「雖禱祈」は一般に、祈(いの)れども、や、こひ祈(の)めど、と読まれている。「哭沢(なきさは)の神社(もり)」は奈良県橿原市)。
「あしひきの をてもこのも(あちこち)に 鳥網(となみ)張り 守部(もりべ)を据ゑ(須恵)て」(万4011:人をすえた)。
「世の中の常のことわりかくさまになり来にけらしすゑ(須恵)し種(たね:多禰)から」(万3761:種をすえた。植物の種ではあるが、比喩的に事象、自分のしたことを言っている)。
「東宮位につき給ひなば、若宮をこそは春宮にはすゑめと思ふに…」(『栄花物語』:人を地位にすえた)。
「判(ハン)をすゑ」(単に判を捺(お)すのではなく、意思の確定性を表現しつつ印跡を現す)。「腰をすゑ」(意思確定的になにごとかに取り組む)。「灸をすゑ」は皮膚の効果的なその点に確定的に灸の効果を生じさせる。「塵(ちり)をすゑず」という表現もある。これは塵による価値や意味の侵害性を深く表現しつつ「塵をつけず」や「汚れをつけず」と同じような意味で言われる。
◎「すわり(坐り)」(動詞)
「すゑ(据ゑ)」の自動表現。「さへ(障へ):他」:「さはり(触り・障り):自」、「かへ(交へ・変へ・替へ・代へ):他」・「かはり(変はり・代はり):自」のような変化。据えられた状態になること。基本的には、人が上半身は自立し下半身は臀部や脚部が地や座具についた体勢になることであり、移動可能性が弱まることによりその位置への固定的安定性が強まり「すゑ(据ゑ)」の自動表現が言われ、人の身体部位や事象にかんしても言われる。
「(御簾(みす)の)と(外)にすわりてこたふるにいといふかひなし」(『蜻蛉日記』:(右馬頭が)御簾(みす)の)外にすわったままで、こちらがなにを言っても甲斐がない、ということか)。
物の位置関係が不安定なら「すわりが悪い」。「印(イン)のすわった手紙」「文字がすわる」と言った表現もある。それらに明瞭な安定性が感じられる。胆(きも)・性根(シャウね)・心がすわる、は動揺なくそれらが安定している。「目がすわる」が、視覚や注意の安定ではなく、一点しか見えない機能喪失を表現するのは目が身体部位だからか。身体部位が動かなくなるのは機能不全だということ。