「しひふるや(廃ひ振るや)」。「しひふ」が「す」になっているわけです。「しひ(廃ひ)」は、機能不全や機能不能を、能力的に衰力化してしまうことを、表現する。「ふる(振る)」は、何かを現すこと。感づかせること。「平気なふりをする」などの「ふり」。「や」は怪しむ疑惑表明。「しひふるや(廃ひ振るや)→すら」は、能力的に衰力化してしまった状態を現しているだろうか、能力的に衰力化してしまった状態を現しているかも知れないが、ということ。「しひふるや(廃ひ振るや)」→愚かにもふるや→「愚かさを現わしているだろうか(愚かなことを言っているようだが、そうではなく)」といった意味。これは、言語表現活動がある場合、表現されている内容を表現するものではありません。これは、その言語表現活動自体に関する弁明です。バカなことを言っているかも知れない場合、は、二つの場合に類別できる。一は、信じがたいことを言っている場合、だれにも信じてもらえないかも知れないことを言っている場合。この場合は弁明によりその信憑性を高めようとする。信じられないかも知れないが、のような意味になる。「巖(いはほ)すら行き通る」(万2386)は、この場合、信じられないかも知れないが、の系譜。二つの場合の他の一は、分かりきったことを言っているが、失念していたり、気づいていなかったりするかも知れない相手へ注意を喚起したい場合。この場合は、分かっているかも知れないが、のような意味になる。「草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく」(万995)、はこの場合、わかっているかも知れないが、の系譜。一瞬どちらの系譜だろうと思うものもある。「よき人の正目に見けむ御跡すらを我はえ見ずて石に彫りつく」(「仏足石歌」)。これは、信じられないかも知れないが、の系譜。智のある人の目の当たりに見ただろう足跡などという誰でも当たり前に見られるそれも、仏陀のそれであれば(凡人たる)我(我々)はけして見ることができず、そこで石に彫りつける。そんなことはないだろうと思うかもしれないが(足跡などという当たり前のものを)見ることはできず…。

音(オン)が「そら」になることもあった。これは「しひをふるや」でしょう。「逆罪を犯せる者そら仏を念じ奉て利益(りやく)を蒙る事既に此の如し」(『今昔物語』:そんなことはないだろうと思うかもしれないが仏を念じて利益を蒙る)。

 

「是(かく)の如(ごと)き菩薩(ぼさつ)すら各(おのおの)無量無邊 (むりやうむへん)の劫數(ごふしゆ)を經(へ)て。然(しか)して後(のち)に方(まさ)に菩提(ぼだい)の記(き)をば受(う)くること得(う)べし」(『金光明最勝王経』巻九・授記品第二十三(平安初期点):そんなことはないと思うかもしれないが(菩薩(ぼさつ)すら)無量無辺の劫数を経て)。

「たらちねの母のその業(なり:母之其業)桑(くは)すら(尚)に願へば衣(きぬ)に着るといふものを」(万1357:お母さんが生業(なりはひ)として育てている桑(くは)だって願えば(蚕(かひこ:養ひ子(自分))が食べて)衣(きぬ)になって着るのに…。ようするに、お母さんが育てている桑(くは:来(く)は?((彼が)来ることは?))だって衣(きぬ:来(き)ぬ(彼は来た))になるのに…(彼が来たっていいじゃないの)、ということ。そんなことはないと思っているかもしれないが願えば衣に…)。

「夢(いめ)のみに見てすらここだ恋ふる吾はうつつに見てはましていかにあらむ」(万2553)。

「ひじり(聖)などすら、前の世のこと夢に見るは、いとかたか(ん)なる(かたくありにある)を」(『更級日記』)。

「春雨すらを間使ひにする」(万1698)。

「…かくしてや 荒(あら)し男(を)すらに(須良爾) 嘆き伏せらむ」(万3962:「しひふるやに→すらに」ということであり、この「に」は動態を形容する「に」)。