「すめら」は、「すめるは(為見る時間)」。

「す」は動態を表現する「す(為)」です。息をする、音がする、などのそれ。時間進行している今の動態、全動態、人の誕生から死、生命の誕生から死、自然の変化、宇宙の誕生と死、全運動といったあらゆる動態を表現する。「める(見る)」は動詞「み(見)」に完了の助動詞「り(る)」がついたものの連体形。なぜ「み(見)」がE音の「め」になるのかに関しては「り(助動)」の項。受け身・自発・可能・尊敬の助動詞「る(れ)」が尊敬を表現するのと同じ理由で敬(うやま)いを表現している。「すめる(為見る)」は「今しているを見る」のような意味になる。

語尾の「は」は時間を表現する。それに関しては「はは(母)」の項。

つまり、「すめるは→すめら」とは、動き、あらゆる動態、を見る時間、宇宙の全運動、あらゆる生々流転を見る時間、というような意味でありその素朴な敬い表現である。時間が人格を得たようにすべてを見ている。発生起源的には、時間、時の流れ、自然界の変動は意思を感じさせ、その時間、時の流れを象徴的に表現する「葉(は)」、それにより象徴的に表現される自然、すなわち、過去永劫から未来永劫への時の流れ、動態たる自然、が「す(為)」を、人の動態一般を、見ている、ということであろうけれど、これは「かみ(神)」ではない。「かみ(神)」という言葉は別にある。このような概念があるのは世界中でただ日本だけです。他に例はない。

「すめら」は「かみ(神)」ではなく、神話に登場するというわけではない。これは対象ではないのです。これは、対象を、ものやことを、世界を、見たり、聞いたり、記憶したり、思ったり、考えたりするその作用の域なのです。そしてその域の保存保障として、それが置かれた生身の、生きた人が置かれる。存在化される。それが「すめらおき→すめろき(天皇)」です。なぜ置かれたのかと言えば、「すめら」は認識の域であり、日本の神話は、神々の世界は、知的生命体たる人に、神(かみ)の世界へ、「祈(こ)はむ「い」」(→「かみ(神」の語源・2021年6月13日)の世界へ、たどりつく途(みち)を教えるから。「すめらおき→すめろき(天皇)」は「すめら」(域)が置かれ「すめら」(域)に置かれ、その人は「すめら」にあり、その人は単に「すめら」とも言われる。逆に言えば、『皇室典範』その他、議会が議決する法律により皇位継承順が定められ、それにもとづきある人が天皇ということになり高御座(たかみくら)に立ち三種の神器などがそばに置かれたとしても、その人が「すめら」にいない場合、その時空域にいない場合、その人は「すめろき」ではない。その人は天皇ではない。生物学的に遺伝子の継承が認められたとしても、それは「すめろき」であることは保障しない。

 

「現御神(あきつみかみ)と大八島國(おほやしまくに)しろしめす天皇大命(すめらがおほみこと)らまと詔(の)りたまふ大命(おほみこと:大御言)を…………聞(きこ)しめさへと詔(の)る。高天原(たかまのはら)に事(こと)始(はじめ)て遠(とほ)天皇祖(すめろぎ)の御世中(みよみよなか)今(いま)に至(いた)るまでに天皇御子(すめらがみこ)の………………となも随神(かむながら)思(おもほ)しめさくと詔(の)りたまふ天皇大命(すめらがおほみこと)を諸(もろもろ)聞(きこ)しめさへと詔(の)る。…………天皇朝廷(すめらがみかど)の敷(し)きたまひ行(おこな)ひ賜(たま)へる國法(くにののり)を………明(あか)き浄(きよ)き直(なほ)き誠(まこと)の心(こころ)をもちて…」(『続日本紀』宣命・文武天皇元年八月甲子朔(一日):「天皇大命(すめらがおほみこと)らま」の「らま」は感嘆を表現する挿入句のような語)。