◎「すぱ」
語頭の「す」はS音の動感により動態があることを表現する。「ぱ」は、「はっと気づく」の「は」のような、そして何かを(感覚的に)提示する助詞の「は」のような、情況的感覚感を表現する「は」の刺激性を強めた表現であり、「ぱっと咲く」や「ぱっと現れる」などの「ぱ」に同じであり、情況的に何かを感づかせる、つまり何かが現れる。「すぱ」、それが表現強化され促音化した「すっぱ」は、「す」により表現されるその動態が何の介在もなく、何の条件にも制限されず(時間的制約もなく)、何の障碍も受けず、そのまま現れること。それを情況進行を表現する「り」で表現すれば「すぱり」。それが表現強化され促音化すれば「すっぱり」。「(刀を)すっぱ抜く」。「袈裟にすっぱり」(人を袈裟懸けに斬った)。
情況動態(「さ」)か個別感のある動態(「す」)かの違いはあるが意味は似ており、「すっぱり」は「さっぱり」と同じような意味でも言われる(「さっぱり」の項参照)。「『サアサア、是(これ)ですっぱりとなりました』」(「歌舞伎」:障子を全て貼り変えた)。「すっぱり負けて仕舞ました」。
◎「ずは」
「ず」は否定を表現する。「は」は「私は」のそれのように、何かを提示する。ようするにそれだけなのですが、この「ずは」に関しては特異な問題が起こっている。たとえば『万葉集』にこんな歌がある。「かくばかり恋ひつつあらずは(不有者)高山の岩根し枕(ま)きて死なましものを」(万86)。この歌が、「ずは」を「~でないならば」と解すると解釈できない、意味が分からないと言われる。「ずは」の謎を解くための論文も多数書かれている。「このズハは上代語法の中で最も難しい問題の一つ」ともどこかで書かれていた。「~でないならば」と正しく解釈しながらこの歌が解釈できない、この歌の言っていること、この歌の思い、がわからない、という特異なことが国語学者の間で起こっている。しかし、国語的に特異なことはここでは何も起こっていない。「ず」は否定であり、「は」は提示する。それだけである。この歌が言っていることは、これほどに恋ひつつ無いならば(これほどに恋ひ続けることが無いならば)、高山の岩根を枕に死にもしようものを、ということである。本居宣長以来、国語学者にはこれが何を言っているのかわからないようなのである。ようするに、ここで言っていることは、これほどに恋ひ続けることが無いならば、死ぬことでこれほどに恋ひ続けることがなくなるならば、死にもしよう。死んでこの恋から解放され楽になれるなら死にもしよう。死んだほうが楽だ。それほどにこの恋は苦しい(→それほどに私はあなたを思っている)、ということである。ここでは国語的に特異なことは何も起こっていない。「ず」の意味も「は」の意味も「ずは」の意味も、古代も現代もまったく変わっていない。特に目立つ点としては、「は」による提示(感づかせ)が情況を限定し、情況の限定は条件表現になり、その条件たる情況が仮想・空想的である場合は仮想条件・仮定条件を表現する、という点ぐらいである(つまり、「は」だけで仮想・仮定条件を表現している)。「立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひ渡りなむ」(万4441)は、立ちしなふあなたの姿を忘れずにあるのなら、世の限りに、永遠に、あなたを恋ひ続けるだろう→忘れれば恋ひ続けない、しかし、忘れないなら永遠に恋ひ続けることになる→永遠に恋ひ続けさせるほどあなたの姿は美しい、ということです。ただしこの歌は酒宴の席において客が亭主の妻に対し贈ったものであり、世辞です。この「ずは」は「ずば」と濁音化もする。「行かずばなるまい」。これは、あなたがそう言うならば~、の最後の「ば」のような、推量的に仮定を表現する「ば」が、「ずは」も仮定を提示するので、仮定を明瞭にするために重畳的に転用されたもの。