「しうせしろ(為失せ代)」。「しう」は「す」になり、「せし」はS音の連音は濁音化を促し母音E音I音の連音はU音化を促し「ず」になった。「うせ(失せ)」は空虚化・虚無化することであり、「し(為)」が「うせ(失せ)」た場合、すなわち動態一般が、空虚化・虚無化した場合、すべては無意味・無価値となる。「しろ(代)」は、「Aしろ」においてAがものの場合(たとえば「糊代(のりしろ)」)、それはAの専域を表現し、ことの場合(たとえば「伸びしろ(のびしろ)」)の場合もその動態の専域を表現しますが(→「しろ(代・城)」の項・2月11日)、「しうせしろ(為失せ代)→すずろ」、すなわち、動態一般が、空虚化・虚無化し、すべては無意味・無価値たる動態の専域、とは、すべてが空虚・虚無であり、すべて無意味・無価値であり、だからそうある、という、そのことを理性的に維持する理由もないこと、ということです。「すずろなる死に」(意味不明、理由もない死に)。「すずろなる人々」は、それに関し意味も価値も、すなわち何の関係も、ない人々。「すずろなる酒飲」(理性的コントロールが感じられない、ただむやみな、だらしない酒飲)。「すずろなるものうらみ」(ただむやみな、理由のない、ものうらみ)。「すずろに火が起き」(意味不明、理由不明、原因もないと思われるように発火する)。「すずろに言ひ散らす」(脳に浮かぶまま、それに関する反省思考などまったく作用しておらず、なぜそうなる、と理性的思考が働かない状態で、働かないことを、次々と言う)。漫然とうろうろしている動態を表現する「すずろき(漫き)」という動詞、すずろな様子になる「すずろび」(上二段活用)という動詞、「すずろはし」(すずろ這ひああし(「ああ」は嘆声):好感は表現しない)という形容詞(シク活用)もある。

この語は「そぞろ(漫)」に意味が似ていますが、「そぞろ(漫)」は表現が客観的であり、無意味・無価値であったり、理由や原因がないことにかんしさめている。

 

「むかし、男、陸奥(みち)の国にすずろに行きいたりにけり」(『伊勢物語』:理由もなく、あてもなく、なんとなく行った)。

「大納言殿に、兼盛参りたりけるに、(大納言が)ものなどのたまはせて(あれこれ、言ったり、問いかけたりなどもし)、すずろに、『うたよめ』とのたまひければ…」(『大和物語』:それまでの経過から、何らかの理由や動機など全く考えられない状態で唐突に)。

「世にふれど恋もせぬ身の夕さればすずろにもののかなしきやなぞ」(『大和物語』:わけもなくもの悲しくなる)。

「その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅寝をぞする」(『和泉式部日記』:これは後朝(きぬぎぬ)に男から送られた歌の返事たる女の歌。つまり、「すずろ」は恋でそんな思いになっていると言っている)。

「これ(庭石用の石)をただに奉らばすずろなるべしとて、人びとに歌よませ給ふ」(『伊勢物語』:たださしあげたのでは意味や価値が感じられないということ)。

「『…父宮の 尋ね出でたまへらむも、はしたなう、 すずろなるべきを』」(『源氏物語』:(父宮が尋ねてきたら)自分のやっていることに理由もなりたたず、立場がなくなる、のような意)。

「北の方、げに我が子ども男女あれど、男子(をのこご)はすずろなるに、我がためはらからのためする、いとありがたし、とやうやう思ひぬるほどに、年かへりぬ」(『落窪物語』:男子(をのこご)は、なぜあれを生んだのか意味も価値も理由もわからない状態になるが、それに対し女の子は…、ということ)。

「不覚(すずろに)眼(め)を轉(めぐ)らす」(『遊仙窟』(鎌倉時代点):理性の関与などなく、意識もせず)。