「しうつしゆゆし(為移し由由し)」。「しう」は「す」になり「つしゆ」は「じゆ」のような音を経つつ「ず」になり続く「ゆ」は退行化した。語頭の「し(為)」は動態が意思的・故意的であることを表現する。しかし、「しうつし(為移し)」は自分が意思的・意図的に移したことを表現しているわけではない。それは、移(うつ)しがあったと自覚されること、自覚される移しがあったこと、そんな移しの経験があることを表現する。その経験が「ゆゆしい」(深い感銘を与える)。つまり、どこかへ移された感じがする、ということであり、「しうつしゆゆし(為移し由由し)→すずし」は、別世界だ、のような表現です。これが、不快な暑さがひく爽快感も表現する。「すずしい顔」も、不快な暑さがひいた爽やかな顔ではなく、現状ではない別世界にいるような顔。「目のすずしい」は、世の中、現実の汚れ、から離れた別の世界にあるような目の…。

 

「初秋風(はつあきかぜ)涼しき(須受之伎)夕(ゆふべ)解かむとぞ紐は結びし妹に逢はむため」(万4306)。

「孟冬(かむなづき)の作陰(すずしき)月(つき)」(『日本書紀』:この「月(つき)」は、天体ではなく、暦)。

「世間(よのなか)の遊びの道にすずしきは(冷者)酔ひ泣きするにあるべくあるらし」(万347:世の中が楽しくなく、関心がない。原文の「冷者」は「怜者」に書き変えられて、楽(たの)しきは、と読まれたりもしていますが、そんな遊びの楽しさで飲んでいるわけではない、がこの歌(楽(たの)しきは、と読んだ場合、世の中の遊びの道で楽しいのは酔い泣きすることだ、という意味になり、単なるなさけない酒飲みの歌になる)。続く万348は「今代爾之(このよにし) 樂有者(たのしくあらば) 来生者(こむよには) 蟲爾鳥爾毛(むしにもとりにも) 吾羽成奈武(われはなりなむ)」。でも楽しくない。人間だから。人間でありたい。そして楽しくありたい。なぜそうなれないんだ、人間は…。続く万349は「生者(いけるもの)つひにも死ぬるものにあれば今生在間者(今生ける間(ま)は)楽しくをあらな」(万349:「今生在間者」は、この世なる間(ま)は、や、今ある間(ほど)は、と読まれるのが一般)。これらは大伴旅人(大伴家持の父親)の歌ですが、老いて妻を失ったのち、酒浸りだったということでしょう。場所は多分大宰府。その後すぐに京へもどりますが、その後すぐ死ぬ)。

「一足も引かず討死(うちじに)すべしと、神水を飲てぞ打立ける。事の𦣱(おぎろ)実(まこと)に思切たる体哉(かな)と、先(まづ)涼(すず)しくぞ見(みえ)たりける」(『太平記』:「𦣱(おぎろ)」は、意味深い不思議さがある、のような意。現世に、命に、こだわらない、別の世界にあるような、ということ)。