◎「すすき(薄)」
「すすき(煤着)」。野が煤(すす)を着たような印象になるもの、の意。遠くから見ると煙(けむ)るようなその花穂の印象による名。草性植物の一種の名。『和名類聚鈔』には「薄 爾雅云草叢生曰薄(「草叢生」を「薄」と言う) 新撰萬葉集和歌云花薄波奈須々木(はなすすき)…」とあり、『箋注倭名類聚抄』(1827年成立)には「薄 ………按古謂草叢生者爲須須岐 非一草名…」とあるわけですが、これは、一面に生い茂るその植物により草原全体が「煤着 (すすき)」になることが「すすき」なのであって、21世紀に言うある種の植物たる「すすき」に限らず、「をぎ(荻)」であってもそれは「煤着(すすき)」であり、それが蘆(あし・よし)であっても「煤着(すすき)」だったのでしょう。
「山処(やまと)の一本(ひともと)すすき(須須岐) 項(うな)傾(かぶ)し…」(『古事記』歌謡5:これは後世で言う薄(ススキ)ではなく荻(ヲギ)でしょう。ススキは(相当に大きな)株になって生え、一本(ひともと)にならない。ヲギは株にならない)。
「婦負(めひ)の野のすすき(須々吉)押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しくおもほゆ」(万4016:これは、「すすき」という名のある種の植物一面に雪が降っているわけではなく、野一面に「煤(すす)・灰」を着せるように降る雪、ということでしょう。一面の銀世界というわけではないのです。野が少しづつ白い粉を着せられていくような状態になっている。「婦負(めひ)の野」は現・富山県富山市と言われている)。
◎「すすぎ(濯ぎ・漱ぎ)」(動詞)
「すすにぬき(煤に抜き)」。「に」は助詞であり、動態を形容する用いられ方。「すす(煤)」は異物たる汚れとして言われている。「すすにぬき(煤に抜き)→すすぎ」は、なにものかやなにごとか(たとえば、汚名、や、恥)を異物たる不要な汚れとして、自分から(たとえば、口から)、自分とは無関係な状態へ進行させること。そのために、たとえ象徴的にではあったとしても、水で身体に付着した異物を洗い流す行為が一般的に行われ、「水を漱(すす)ぎ」と言っただけで水で身体を、特に口を、すすいだことが表現されたりもする。口をすすぐことがその後に発せられる誓いや念仏に穢れ・嘘偽りのないことを象徴する。
「能(よ)く臭き身をすすぎ」(『地蔵十輪経』)。「口をすすぎ」。喪失させる何かを目的としても表現する。「恥辱をすすぐ」。
「是(ここ)に、綾糟(あやかす:人名)等(ら)、懼(おぢ)然(かしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなは)ち泊瀬(はつせ)の中流(かはなか)に下(おりゐ)て、三諸岳(みもろのをか)に面(むか)ひて、水(みづ)を歃(すす)ぎて盟(ちか)ひて曰(まを)さく、『臣等(やつこら)……』」(『日本書紀』敏達天皇十年閏二月:「歃(サフ・セフ)」は、啜(すす)る、とも読まれている。しかし、「歃」は、「歃血」、宣誓の際に犠牲者の血で口を汚すこと、などと説明される字であり、ここで、水を啜(すす)る(飲む)、は奇妙でしょう。生贄の血で心情を浄化するように、水をすすぎ(「を」は状態を表現する) 盟(ちか)ひて…)。
「漱 ……ススク クチススグ」「雪 …ユキ キヨム……ススク アラフ」(『類聚名義抄』)。
「『……よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りを すすいたまはざらむ』と…」(『源氏物語』:この「罪(つみ)」は仏教的な意味での罪障)。