「せゐしああにおほ(勢居為『ああ…』に大)」。「せい」のE音とI音の連音がU音になっている。「せ(勢)」は、川の「せ(瀬)」や、「せき(急き)」、「せめ(迫め・責め・攻め)」、「せり(迫り)」などに現れる「せ」。S音の動感とE音の外渉感により外渉的(他へ、環境へ、働きかける。それゆえに勢いの感じられる)動感が表現される、動態の進行感・昂進感の高まり、動態勢力昂進が表現される「せ」。「せゐし(せ居為)」はそうした動態勢力昂進にある動態が表現される。『ああ…』は感嘆発声。「に」は助詞。「おほ」は「大」である(際限なく規模が増大していく)。これは神名ですが、行動力活力が量的に際限なく途方もない神。つまり、行動力・活性力の神格化です。

この神は、生まれ、海原(うなばら)を領(し)らすことになり(下記※)、「妣国根之堅州国(ははのくにねのかたすくに)」を恋しがり泣き(つまり、情動的に非常に単純素朴です)、天照大神を不安にさせ、祈誓(うけひ)により女が生まれたことにより勝ちとなり、勝ち誇り傍若無人となり、天照大神は天の石屋戸に隠れ世界は闇となり、アメノウズメノミコトの舞の誘いと鏡の力により石屋戸は開き、スサノヲノミコトは「ちくらのおきど」を負わされ「かむやらひ」にやられ天下り、その子孫のオオクニヌシノミコトの時代、世界は「いたくさやぎてありなり」という状態になり、国譲り・天孫降臨がある。国譲り・天孫降臨があってもスサノヲノミコトは死ぬわけでも権威がなくなるわけでもない。ただ、世界における主たる権威ではなくなる。それは真理性・正義性の決定的有無根拠ではなくなる。ちなみに、この「すさのを」は天降ったのち、そこで「やまたのをろち」という壮大な禍(わざはひ)を退治している。

 

※ 『古事記』では海原(うなばら)を領(し)らすことになっている。『日本書紀』の本文や一書では異なったことも言われ、「根國(ねのくに)に適(い)ね」、 「根國(ねのくに)を治(しら)しむ」、 「根國(ねのくに)を馭(しら)すべし」、 「天下(あめのした)を治(しら)すべし」(天照大神は「高天原(たかまのはら)を治(しら)すべし」:そう言われその後スサノヲノミコトは「情(こころ)の任(まま)に行(い)ね」)、 「滄海之原(あをうなはら)を御(しら)すべし」、 とされたとなっている。つまり、・滄海之原(あをうなはら)・情(こころ)の任(まま)に行(い)ね・根國(ねのくに)・天下(あめのした:天地(あめのした)、ではない。天下(あめのした)) といった世界の神です。