◎「すこび」(動詞)
「すくこび」。「く」は無音化した。「すく」は「すくと」(3月15日・すくと立つ)や「すくやか」などのそれ(それらの項)。この場合は信頼感のある態度だ、ということ。「こび」という動詞はさまざまな意のそれがありますが (「こび(動)」の項・2022年4月8日) 、この場合は「古(コ)び」であり、大人の様子だ、風格のある様子だ、ということ(この場合は、格を気取って、のような意味になる)。「すくこび→すこび」は、信頼感のある、風格のある様子になっている、ということ。それに感心したり感服・感嘆したりしているわけではなく、違和感がある(そうだ、という表現ではなく、(中身はともあれ)見ていてそういう様子だ、という表現なのです)。「づこび」という語もありますが、これは「頭(ヅ)こび」でしょう。「こび」は上記に同じ。頭(あたま)がそうした状態になっているということ。この動詞は上二段活用。
「鯉と言ふ事をすこびて六六魚」(「雑俳」:「六六魚」は「リクリクギョ」ないしは「ロクロクギョ」。「鯉魚 …鯉は首より尾にいたるまで鱗の数三十六あり。故に六六魚の名あり」(『重訂本草綱目啓蒙』))。
「芝日比谷三丁目に大和屋善左と申して、すこびたる人あり」(『鹿の巻筆』「仏事のいんしん」:「いんしん」は、殷賑(にぎやかなこと)。この人は浄土真宗で、「殊の外後生願ひ」である人。仏事に熱心な人(仏の道に生きているわけではなく、あくまでも、家でやる法事その他、「仏事」に熱心な人)をそう言っている)。
「か様のざれごとも濟家洞家の禅宗へ立入少し禅宗口にづこびて申すなり」(『甲陽軍鑑』)。
◎「すこぶる(頗る)」
「すくおびふる(すく帯びふる)」。「すく」は「すくと」や「すくやか」などのそれ(それらの項)。「おび(帯び)」は感覚的な存在を経験している状態になること→「おび(帯び)」の項。「ふる」は動詞「ふり(生り・振り・遊離り)」の終止形であり、発生感があること(その項)。この終止形が挿入句のように入り表現される。「すくおびふる(すく帯びふる)→すこぶる」は「すく」を帯(お)びていることが感じられる、ということなのですが、「すく」は、信頼感がある、強くしっかりしている、といった意味であり、その「すく」を帯びていることが感じられる、とはどういうことかというと、たしかな、信頼感のある現象感をもってものごとが現れる。確かに、まったく、のような意です。そして、それが、言うこと、その内容、が否定される情況で、そうではない情況で、言われる場合、それでも確かに、そうではないと思われるかもしれないが確かに、少しは、といった意味になる。これは漢文訓読の世界で生まれた語かもしれない。
「此小身を観る者前想頗(スコフル)難を去りて易に就くこと難し」(『極楽遊意』:確かに)。
「資盛朝臣をはじめとして侍ども(を)みな馬よりとつて引き落す。すこぶる恥辱に及びけり」(『平家物語』:まったく、疑いのない恥辱、のような意)。
「抑(そもそも)説き給ふ経の文についてすこふるうたがひあり、すべからくあながちおぼつかなさをあきらめむ」(『三宝絵詞』:どうしてもぬぐいきれない疑い、のような意)。
「老のけの甚しきことは皆こそわすれ侍りにけれ。これはたゞすこぶる覺え侍るなり」(『大鏡』:、これだけは、のような意)。
「(その女の)寝たる顔ほ、美麗ながら、頗る気踈き気有り」(『今昔物語集』:その女は、美しかったが、実は羅刹(ラセツ:人を食う惡鬼)だったという話。この「すこぶる」は、一見気づかないが、たしかに、ということ)。
「微 ……ホノカニ…スコシ…………カクル ヒソカニ……………………スコフル」、「漸々 スコフル」、「頗 …スコフル」(以上『類聚名義抄』:「頗(ハ)」は『説文』に「頭偏也」とされる字であり、中国の他の書にも「不平也,偏也」とされる字。つまり、なにごとかが特起的に、特異的に、現れている)。
「すこぶる上機嫌」(たしかに、疑いなく、上機嫌)。
◎「すこやか(健やか)」
「すくおほやか(すく大やか)」。「すく」は「すくと」などのそれ。「おほ(大)」は規模が増大する動態にあること。「やか」は「はるか(遥か)」の項。「すくおほやか(すく大やか)→すこやか」は、非常に信頼感をもって増大していく印象であることを表現するが、体が頑丈・健全であることも表現する。
「健 スコヤカ」(『節用集』(大阪府立図書館蔵のもの))。
◎「すさ(苆)」
「しふせは(為伏せ端)」。語頭の「し(為)」は意思的・故意的であることを表現する。「ふせ(伏せ)」は抑(おさ)え、形を確かなものにすること。壁(土壁)のあり方を伏せる(平面的にまとめる)状態にする(藁などの)端(はし)、の意。壁土に混ぜる短い繊維質の材料をいう。
「寸莎 スサ 塗壁所用」(『書言字考節用集』七巻)。