「すぎ(過ぎ)」の他動表現。「いき(生き:自)・いかし(生かし:他)」、「なり(鳴り:自)・ならし(鳴らし:他)」、「もえ(燃え:自)・もやし(燃やし:他)」のように、他動表現は活用語尾のA音化が一般ですが、「すぎ(過ぎ)」の場合(上二段活用動詞の場合)なぜ活用語尾がなぜO音化するのかにかんしては「おとし(落とし)」の項(2020年10月21日)。意味は「過ぎ」の他動表現であり、何かを過ぎる状態にすること。対象を過ぎる状態にすることは使役型の他動表現になる。物にかんしてもことにかんしても言い、その対象は進行しており、人を過ぎる状態にしそのままどこかの方向へやれば「やりすごす」。時間経過とともに変動しこれが進行となる環境事象一般を過ぎる状態にすることは、暮らす、や、生活する、と同じような意味になる→「私はその町で三年すごした」。人をその意味で「すごす」ことはその人をすごさせる→生活させる→生活の面倒をみる、という意味にもなる。たとえば「老いた母をすごす」が、老いた母の生活の面倒をみる、という意味になる。ある個別的な事象を過ぎる状態にすれば、そのことにかかわらず、そのものごとをそのままやりすごす。「見(み)すごす」は、「見(み)」という動態に過ぎた状態になっている なにごとか や なにものか がある。その「見(み)」に なにごとか か なにものか が留(と)まっていない。「思ひすごし」は、思いに なにごとか が留まっていない。「あの子がきみに気があるっていうのはきみの思いすごし」。似た語に「すぐし(過ぐし)」がありますが、両者の差異にかんしてはその項。両語の意味や用いられ方は似ている。「すぐし(過ぐし)」も参照。
「頭うちわられぬとおぼゆれば、にはかにかたはらざまにふとよりたれば、をふ(追う)物の走はやまりてえとゞまりあへず、さきに出たれば、すごしたてゝたちをぬきて打ければ…」(『宇治拾遺物語』:過ぎることをさせた、やりすごさせた、ということでしょう)。
「つれづれとすごし侍らむ月日を」(『蜻蛉日記』)。
「こすげろの(小菅ろの) うらふくかぜの(浦吹く風の) あどすすか かなしけころを(愛しけ娘ろを) おもひすごさむ(思ひ過ごさむ:須吾左牟)」(万3564:「あどすすか」の「あど」は、なに(何)と、どのように。「すすか」の「すす」は動詞「し(為)」の終止形が連続しており、「行く行く(将来)は」のように、動態の持続を表現する。「あどすすか」は、どうし続けるのか、ということ。全体は、(すごさむはあどすすか、の)倒置表現になっており、か+連体形の係り結びというもの。あんな「愛(かな)しけ娘(こ)」を思いながら過ごすなんて、いったいどうすればいいんだ、ということ。こんなに、ただ思いながら過ごしているなんていやだ、耐えられない、ということ。これは東国の歌。方言的な変異がある)。
「かかる折に、宮のすごさずのたまはせしものを、げにおぼしめし忘れにけるかな、と思ふほどにぞ、御文ある」(『和泉式部日記』:こういうときには宮はなにもせずそのまま情況を経過させてしまうなどということはないのに…)。
「そんなことは後目にしてマアマア一杯すごしなせへ」(『東海道中膝栗毛』:酒を飲むことを、すごす、と言っている。酒を(酒の時を)すごすということ。飲酒が限度を越えていると思われることを「酒をすごす(酒を、量的に、限度を過ぎさせる)」ということもある)。
「よろづの営みをして母をすごさんために」(「御伽草子」『蛤の草子』:母を経過させる→母に生活・暮らしをさせる、ということなのですが、この草子における意味はもう少し深刻であり、飢饉のなかで母に何かを食わせその命を養うために、の意)。