「すぎゆるし(過ぎ許し)」。「る」は消音化した。「すぎ(過ぎ)」が容認されている状態になる。「すぎ(過ぎ)」はその項(3月11日)。何かが過ぎる、経過する、ままになる。過ぎていく「なにか」は、一般的であれ個別的具体的であれ、環境情況であることが多い(移動物体であることもありますが、それを過ぎるままにすること(つまり、それが過ぎるままになること)はその間個別的・具体的情況が進行しその情況が進行するままにされる(進行するままになる))。一般的環境情況が過ぎていくとは「時をすぐす」、「日をすぐす」、「夜をすぐす」、「年をすぐす」といったこと。「世をすぐす」「命をすぐす」といった表現もありますが、それらの環境情況が経過するままにすることは、生活する、暮らす、のような意味になる。人をそうする場合、その人を生活させる、その人の生活の面倒をみる、のような意味にもなる。個別的・出来事に関し、それを過ぎるままにすることは、そのものごとをやり過ごす、そのことをそのまま放置する、といった意味にもなり、その出来事で暮らす、のような表現は、そのものごとを済ませる、という意味になる(下記『源氏物語』「『阿弥陀仏ものしたまふ堂に…』」の例)。また、ある主体がある動態に関しその動態がただ過ぎるままにすることは、注意が欠落し、立場によっては過失を犯したことを意味することもある。「みすぐし(見過ぐし)」という表現もある。意味は「みすごし(見過ごし)」に酷似していますが、「見過ごし」は、表現が客観的であり、ただ何かを過ぎさせる過失的な表現の傾向があり、「見過ぐし」は知っていながら何もせず、あるいは何もできず、経過するままにしてしまう傾向がある。ただし「見過ごし」も同じことを表現し、要するにどちらも意味は酷似している。
「御前の人々、『牛弱げにはべらば、えさきに上りはべらじ。かたはらに引きやりて、御車を過ぐせ』と言へば、中将、『牛弱くは……』」(『落窪物語』:車を先に行かせやりすごす)。
「秋の野に露負へる萩を手折らずてあたらさかりをすぐしてむとか」(万4318)。
「(ある親王が妻が死んだのちその)御いみなどすぐしては、つゐにひとりはすぐし給まじかりければ」(『大和物語』)。
「ある時には 大殿籠もり過ぐして、やがて(そのまま)さぶらはせたまひなど…」(『源氏物語』:寝所へ行く時間になっても行かずそのまま伺候させる)。
「『この数には、まばゆくや』と聞こえたまへば、『いたうな過ぐしたまひそ……』」(『源氏物語』:これは、甚(いた)く(過剰に)過ごすな、のような言い方ですが、そんなにお気になさることはありませんよ、のような言い方。書く文字を誉められ、そんな人たちと一緒にされるのはまばゆく感じる、と言ったことに対しこう言われている)。
「『まゐれ』など、たびたびある仰せ言をも過(すぐ)して、げにひさしくなりにけるを」(『枕草子』:仰せ言に従わず、それはないかのようにそのままにしてしまう)。
「(僧は)『阿弥陀仏ものしたまふ堂に、することはべるころになむ。初夜、いまだ勤めはべらず。過ぐしてさぶらはむ』とて、上りたまひぬ」(『源氏物語』:ものごとを、仏事たる勤めを、済ませる)。
「左の大臣は、すぐしたる事もなきに、かかるよこざまの罪(応天門が焼けたのは左大臣の仕業だと言われたこと)にあたるをおぼしなげきて」(『宇治拾遺物語』:過失を犯したことを意味している)。
「『(入道が)…』など好きゐたれば(琴に深く親しんでいるようなので)、(源氏は)をかしと思して、(源氏は入道に)さう(箏)のこと(琴)取り替へて賜はせたり。(入道は)げに、いとすぐしてかい弾きたり。今の世に聞こえぬ筋弾きつけて…」(『源氏物語』:「さう(箏)のこと(琴)」は「さう(箏)」のタイプの琴(こと)、ということ。この「いとすぐしてかい弾きたり」は、まるで自分は何もせず自然が流れるように、ただその自然の流れをゆるしているだけのように見事に、ということでしょう)。
「名まへ出居衆で亭主をすくすのか」(『仕懸文庫』:「名まへ出居衆」は店の名を借りて座敷へ出る芸者のようなものでしょう。それで亭主の生活の面倒をみるということ。亭主を生活させる→亭主の面倒をみる、を、「亭主をすぐす」と言っている)。