「すがう(為が得)」。「が」は帰属を表現する連体助詞(母が手→母の手)。「す(為)」「う(得)」はそれぞれ動詞「し(為)」「え(得)」の終止形。「すがう(為が得)→すぐ」は、「う(得)」に帰属する「す(為)」の意ですが、(なにごとかを)為(す)る、が、(その結果を)得(う)だ、という慣用的表現。なにごとかを為(す)るがその結果を得(う)だ、とは、なにごとかの動態や事象があり、そのまま、それを変動するなにごとかなどなにもなく、結果が起こり、得られる、ということ。変動があることはそれによる時間経過もあり、「すぐ」にはそれによる時間経過もない。「すぐ起こる」は、今の状況そのままなんの変動もなく起こる。A点からB点へ「すぐに行く」は、Bをめざした進行がなんの変動もなく、他方向へそれることなく、進行し、これは直線になる。直線状態(人格状態も表現するが)を表現する「まっすぐ」は「真(ま)と直(すぐ)」。「すぐな人(ひと)」は、「人(ひと)」という事象、その人格評価がなんの変動もなく結果たる評価が現れる人。期待や予想たる思いの通りにそれが現れる人。それが期待や予想たる思いと異なった場合、人は「騙(だま)された」という思いにとらわれたりもし、それがないということは、「すぐな人(ひと)・まっすぐな人」は、正直な人、という印象にもなる。人としてのあり方や人の世としてのあり方に変動がない、かなっている、ということは、公正、という意味にもなる。動態を形容する場合は「すぐに」や「すぐと」(「『吉田行(ゆき)も、大宮行(ゆき)も、今(い)ま直(すぐ)と出ますよ』」(『火の柱』(木下尚江)))。

 

「『…ぞ』と問ひ給へば、兼康(かねやす)すぐに知らせ奉りては悪しかりなんとや思ひけん…」(『平家物語』:この「すぐに」は、時間的間隔をおかずに、ではなく、事実をそのまま、の意)。

「また能によりて、さしてこまかに言葉、儀理にかからで大様(おほやう)にすべき能あるべし。さやうの能をばすぐに舞(まひ)、謡(うたひ)、振(ふり)をもするするとなだらかにすべし」(『風姿花伝』:この「すぐに」は、自分のままに、自分が自然であるままに、のような意)。

「この岩海をまはるものならば七八日にめぐるべし。すぐにわたらばその日の中に攻めつべければ…」「この海中には、つつみ(堤)のやうにてひろさ一丈ばかりしてすぐにわたりたる道あるなり」(『宇治拾遺物語』:この「すぐ」は二点間の最短距離痕跡、すなわち、直線、の意)。

「身のさへ(才:ざえ)なと(ど)このよ(世)にはすきて(過ぎて)、いとかしこう(賢う)おはせしほと(程)に、おほやけの御ため、すくならぬうれへをおひたまひて、つくし(筑紫)になかされ(流され)給ひけるに…」(『浜松中納言』:「すぐならぬうれへ(訴へ)をおひ(負ひ)」は、公正を犯すという声があがり、ということ。「うれへ(憂へ)」にかんしてはその項(2020年8月5日))。

「すくなる(すぐなる)しさい(子細)あつて我か(が)しんたい(進退)する者共をは(ば)かいする(害する)事も叶(かなふ)也。すくなる(すぐなる)しさい(子細)なき時はころす(殺す)事叶(かな)はす(ず)。たとひ又すくなるしさい有とても我か(が)しんたい(進退)にてもなき者をは(ば)ころす事なかれとの御いましめ也」(『どちりいな-きりしたん』:「子細」は、事情、理由。「進退する」は、自由にする。「すぐなる子細」は、公正なる理由、事情)。

「『やあ、余程持つた。さあ又、汝持て』『はて扨(さて)重い物ではなし。すぐに持て』」(『狂言記』「荷文(になひぶみ)」:(普通みんなそうであるように)そのまま普通通りに持て、の意。ここで次郎冠者が重そうに言っているのは文(ふみ))。

「彼下地分之事、惣田數年貢配當分は、すくに沙汰可申候由」(「太田行頼書状案」『大日本古文書(家わけ十ノ二・二六八)』:この「すぐに沙汰申すべく」は、時をおかずただちに、とも、正常な普通のあり方に、ともとれますが、たぶん後者。そしてその場合沙汰に間がおかれることはない)。

「すぐそこのコンビニ」。「もうすぐ夏休み」。『すぐそういうことを言う』(これは、間を置かず、ではない。その人の当たり前な自然なあり方としてそう言う)。