「すけゐいひ(透け居言ひ)」。何かが通行した、透過した(透け)、存在動態(居)で、言語表明している(言ひ)ことを表現する。その「なにか」はものもあればこともある。ものは、通常は、人が移動している場合の環境たる物的状況。たとえば「山をすぎ」は、私は今、山を透過した存在状態で言っているのだ、と表明している。言語状況次第では「山がすぎ」もあり得る。「なにか」が時間により変動する状況であることもある。「時がすぎ」。人はただそこにあるだけで時間・歳月は経過していくわけであり、「すぎ」と言っただけで生活することを意味したりもする→「みすぎよすぎ(身過ぎ世過ぎ)」。動態や事象にかんしても言う。「それは言いすぎ」。変動する何かの透過は盛りが衰えたり終わったりする。「花はすぎつつ」は終りを予感させる。「すぎぬ」は「すぎ」は完了しており、「命すぎぬ」は、ほとんどの場合、死を間接的に表現している。

この動詞は上二段活用。否定形は、「すがず」ではなく、「すぎず」。

 

「新治(にひばり) 筑波(つくば)を過(す)ぎて(須疑弖) 幾夜(いくよ)か寝(ね)つる」(『古事記』歌謡25)。

「…秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ(等伎毛須疑) 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人(いへひと)は 待ち恋ふらむに…」(万3688)。

「嘆(なげき)も いまだ過ぎぬに 憶(おもひ)も いまだ尽きねば …………神(かむ)ながら 鎮まりましぬ」(万199:これは挽歌)。

「…清き瀬に 朝夕(あさよひ)ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎ(須疑)めや」(万4000:思いすぎる(思いが過剰)、ではなく、(消えていく霧のようにはかなく)思いが過ぎていく)。

「国にあらば 父とり看(み)まし 家にあらば 母とり看(み)まし 世間(よのなか)は かくのみならし 犬じもの 道に臥(ふ)してや 命過ぎなむ」(万886:この「~なむ」の「な」は完了の助動詞「~ぬ」の変化であり、「命過ぎなむ」は死を言っている)。

「『…それにその金をこひて、たへがたからんおりは、うりてすぎよ』と申しかば…」(『宇治拾遺物語』上本一(一巻)「易の占金取出事」:「うりてすぎよ」は、売って生活しろ、ということですが、親が『何十年後かに、私から金を借りた人が来る。生活に困ったらその人に金を求め、それで暮らせ』と言い残し死に、のち、やって来た旅人を、この人がそうだ、と思い、金のわきまへをしてくれ、と要求した、という話。「金」は現金(かね)ではなく、金属たる金(キン)でしょう)。

「人ハ随分ニ皆我本意ハトグル事ナルヲ。スグル案ヲタダヨクヨクヒカフベキ事也」(『愚管抄』:すぐる案をよくひかえろ、とは、自分の力や能力を超えた願望を想い描くな、ということ)。

「折りふし涼し過(すぎ)た日で、夕方になると、震上(ふるへあが)る様になつて…」(「滑稽本」『浮世床』)。

「上ニハ青キハイ(蠅)集ツテ降腸爛壊タル姿。キタナキ事ハ死シタル犬ニモ過ギ…」(『孝養集』)。