◎「しをり」(動詞)
「しをり(為折り)」。語頭の「し(為)」は意思的・故意的であることを表現する。「しむけ(為向け)」が動態的にコントロールしながら(意思的・故意的に)向けることを表現するように、「しをり(為折り)」は動態的にコントロールしながら折る。どういうことかというと、山へ入った際、帰りの進路が分からなくなり道に迷う危険があるので、要所要所で目につく木の枝を折る(草を刈ることもしたかもしれない)。それが「しをり(為折り)」。(読むという動態の)進行の(今どこにいるかという)目印にするという意味でこれは本の「しをり(栞)」という言葉にもなっている。この言葉は、山では枝を切り落とすわけではなく、目につくようにただ折ってそこだけが枯れる状態にすることから、何か(たとえば枝や弓)を曲げる、撓(たわ)める、といった意味でも用いられる。また、「をり(折り)」の基本意は物や動態を鋭角的な山形にするということであり、動態や生態が山形にされればそれは逆向きになりもとへ戻るような状態になり、また「しをり」の意思的にコントロールし道に迷わないようにする、行くべき路を教える、というその意味から、人に対しそれを行い、それは何かを悔い改めさせるために痛い思いや辛い思いをさせ人を矯正すること、すなわち折檻すること、も意味する(つまり、動詞「しをり」が、行くべき路を教える、それも、枝をへし折るように力で、といった意味になる)。
この「しをり」という動詞は、その自動表現「しをれ」とともに、「しほり(霑り)」(2022年12月23日)「しほれ(霑れ)」と表記も意味も混用が起こり、混同が起こっている。すなわち、「しをり」が(子供などを)叱りしょんぼりした状態にすること(しほ(霑)らせること)を表現し、「しをれ」が濡れたり、(塩が溶解するように)弱ったり、しょんぼりした状態になったり、草花が勢いがなくなったりすることを表現する。つまり「しをれ」が「しほれ(霑れ)」の状態を表現し、「しをり」の影響で植物に関しそれが言われる傾向が強い。「草木がしをれ」が草木が枯れいくような状態であることを表現する。→「しほり(霑り)」の項も参照。
「ふる雪にしをりし柴もうづもれて思はぬ山に冬ごもりする」(『山家集』:「しをり」は雪にうづもれ行くあてはわからなくなっている)。
「身のうさにしほらで入りし奥山に何とて人のたづねきつらん」(『浜松中納言物語』:「ほ」は、国立国会図書館にある写本では「本」の変体仮名になっている。つまり「を」ではない。しかし、意味は、山で帰り路を迷わないようするための「しをり」)。
「この女のいとこの宮御所(みやすどころ)、女をばまかでさせて、蔵にこめてしおりたまうければ、蔵にこもりて泣く」(『伊勢物語』:この「しおり」は折檻であるが、この「お」の原文は「を」でも「ほ」でもなく「於」の変体仮名。これを「しほり」と書くと、厳密に言えば、「しほり(霑り)」が他動表現として用いられ、人を、塩が溶けていくような、萎(しほ)れた、情けない状態にすること、という意味になる)。
◎「しをれ」(動詞)
「しをり」の自動表現。「しをり」を受けた状態になること。ただし→「しほれ(霑れ)」が「しをれ」と書かれることもよくある。よくあるというよりも、ほとんどそうかもしれない。「しをり」の自動表現はほとんどその必要性はないでしょう。もちろん、「しほれ(霑れ)」が「しほれ」と書かれることは当然ある。「しをり」「しほり(霑り)」の項参照。
「言(こと)繁(しげ)み相問はなくに梅の花雪にしをれて(之乎禮氐)うつろはむかも」(万4282:この「しをれ」は、雪に行くべき方向を指し示され、のような意味でしょう。これが「しをれ」と書かれていても「しほれ(霑れ)」の意とすることは歌意が不自然であることにかんしては「しほり(霑り)」の項)。
「御前の五葉の、雪にしほれて、したは(下葉)かれ(枯れ)たるを見たまひて」(『源氏物語』:一般にこの「しほれ」は「しをれ」になっていますが、国会図書館にある原文ではこの「ほ」は「本」の変体仮名。これは冷たく濡れて生気が衰えているのでしょう)。
「女君……すくよかなる折もなくしほれたまへるを、(源氏が)かくて渡りたまへれば、すこし起き上がりたまひて、御几帳にはた隠れておはす」(『源氏物語』:国立国会図書館にある全54巻の『源氏物語』当該部分(「真木柱」)のこの「しほれ」の「ほ」は「本」の変体仮名。しかし、紙であれネットであれ、一般にはこの部分は「しをれ」になっていると思われる)。