◎「しわし(吝し)」(形ク)
「しほはゆし(塩映ゆし)」。「しほはゆし→しわゆし」のような音となり、「いふ(言ふ)」「ゆふ(言ふ)」のような音交替も起こり「しわし」になった。「しわき」は「しわい」にもなり、「しはし」とも表記される。「しほ(塩)」は落胆するような、打ち萎(しほ)れるような思いになることを表現し(→「しほ(塩)」「しほたれ(塩垂れ)」の項・2022年12月20日)、「はゆし(映ゆし)」は反映、まばゆさ、が過剰ということですが、この語は、顔がむけにくい、きまりが悪い、といった意味でもちいられる。ここでは、見ていてこちらが気恥ずかしくなる、のような意。すなわち「しほはゆし(塩映ゆし)→しわし」は、落胆し、がっかりし、打ち萎れるような思いになり見ていてこちらが気恥ずかしくなる、ということ。みじめな境遇にある人がみじめであってもそれは気の毒なわけであるが、そうではない人が予想や期待に反しみじめであったときそうした印象になる。もっとも一般的には経済的にそれは現れる。たとえば、みながさまざまな物をもちよって、それでなにごとかをおこなう場合、資産も収入も豊かであるにもかかわらず、貧しい人並み、さらにはそれ以下、の質や量しか提供しない場合、それは「しわいこと」であり、その人は「しわいひと」。人間性に落胆するようなみじめさが感じられる。
「『何(なん)ぞおませ度(た)い(さしあげたい)物じやが…』……………『汝も何ぞやらぬか』『私は何も御座らぬ』『悋(しは)い事をいふ…』」(「狂言」『入間川』)。
これは(たとえば広島の)方言ということなのでしょうけれど、この「しわい」が、疲れた、だるい、(体が)つらい、などのような体調の不具合・不調を表現しもちいられる場合もある。これは「しほ(塩)」を、他者にではなく、自己に感じている表現ということでしょう。
固く、なかなか噛みきれない干し肉を「しわい肉」と言ったりする「しわい」もある。この語は「しゅわい」という言い方もする。これは「シュはやい(守早い)」でしょう。「はやし(早し)」は、基本意は、効果的であることを意味する→「はやし(早し・逸し)」の項。「守(シュ)」が効果的であるとは、守りが堅い、手ごわい、ということ。同じような意味の「しない」もある。これは「しのはやい(篠早い)」。篠(しの)のような柔軟な強靭さが効果的に現れている。
◎「しゑや」
「よしゑやし」の慣用省略的表現。→「よしゑやし」の項。「よしゑ」とも言い、もう何も考えない、もう悩まない、と宣言するような表現。
「あらかじめ人言(ひとごと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや(四恵也)我が背子奥(おく)もいかにあらめ」(万659:「奥(おく)」は、時間的奥・将来・行く末、でもあり、(背子の)心の奥でもあるのでしょう。人の噂が激しい、どうせそうであるなら、もはや世の中への配慮などしない、そんなことはもうどうでもいい、我が背子よ、奥がどうであろうと、どうなろうと)。