「しり(領り)」(1月31日)の語尾E音化自動態表現(客観的に対象化した主体の自動態表現)。客観的主体としては「領(し)られた」状態になること。「領(し)られた」状態になる、とは、絶対的な自然の摂理、自然や宇宙の声、神の声たる意思影響下におかれたような状態になり、自己の思考や判断など働かない状態になる。それらは起こらなくなる。この語は「ゑひしれ(酔ひ痴れ)」と慣用的によく言われ、また、愚かしい(通常、誰にでも期待できそうな思考や記憶が機能していない)、という意味で言われる傾向が強い。愚かしい、ばかげている、痴(し)れもののように、といった意味の「しれじれし」「しれじれしく」といった表現もある。

「中に心さかしき者、念じて射んとすれども、ほかざまへ行きければ、あれも(荒々しくも)戦はで、心地ただしれにしれて、まもり合へり(見守り合った)」(『竹取物語』:ただ茫然とお互いを見合うような状態になった)。

「ありとあるかみしも、わらはまでゑひしれて」(『土佐日記』)。

「手代あぐみて、扨(さて)もしれたる御坊かな、漸(やうやう)盃壹(一)枚賣(うる)とていかい手間入なれ、と…」(「浮世草子」『西鶴織留』:盃一つを買うのにいろいろとうるさい注文をつける僧を「しれたる」といっている。これは、思考や記憶が働かなくなっているのではなく、自己陶酔化した思考や記憶しか働かなくなっているということでしょう。これは、愚かしい、という思いにもなる)。

「思ひ寄らざりけることよ、と、しれじれしき心地す」(『源氏物語』:私は考えのない痴れ者だった、という思いになった。これは「しれじれし」の例)。