「しり(知り)」の語尾E音化自動態表現(客観的主体の自動態表現)。客観的主体が知る状態になること。「(Bが)Aに知れ」の場合、自動的・自発的「知り」はAにおいて起こっているわけであり、知るのはAです(Aに(Bが)知られる)。知る内容Bに視点をおけば、Bは知られる。ものごとが「知れ」の場合、「知り」は人一般に起こっている。つまり、(ものごとが)一般的に知られている→「(ことが)知れわたる」、「知れたことよ」(「知り」は誰にでも起こっているわかりきった当たり前のことだ)、「高(たか)の知れた」(程度や限度のわかりきった)、「人知れず」(誰も知らない状態で:活用語尾E音で可能を表現することが室町時代以降には起こっていますが、それによれば、「人知れず」は、人は知ることができず、も意味し得る)。

「春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋に己(おの)があたりを人に知れつつ」(万1446:春の野の雉のつま恋の鳴声にその居場所を、つまり、それが誰かを、つまり、その人のその思いを、人に知られるような―私はそんな思いだ、ということか)。

「わが思ひを(吾念乎)人に知るれや(人爾令知哉)玉匣(たまくしげ)開(ひら)き明(あ)けつと夢(いめ)にし見ゆる」(万591:「知るれ」は連用形「知れ」の(つまり下二段活用動詞「知れ」の)已然形(※)。これは、「わが思ひ」という、知る内容に視点がおかれ表現されており、それは知られたか、という受け身表現になる。すなわち、私の思いは人に知られたのだろうか(いやそんなことはありえない。私はそれほど深く思いをひめている)、ということです。「一日も妹を忘れて思へや」(万3604)のように、動詞已然形+や、という反語表現は『万葉集』には珍しくない)。(※)下二段活用動詞の已然形は終止形に「れ」がついた状態になる。たとえば「絶え」なら「絶ゆれ」、「流れ」なら「流るれ」、「しれ(知れ)」なら「しるれ(知るれ)」。

他の動詞でもそうですが、この「しれ(知れ)」は、後世(たぶん室町時代頃以降)、可能の意味が生じている。つまり「しれ(知れ)」が、知ることができ、の意味になる(「きれ(切れ)」などでもそうです)。「ハハァ、さすが都じゃ。かう見るに、知れぬ事を呼はって歩行(ありけ)ば知るると見えた」(「狂言」『すゑひろがり』:この「知れぬ事」は自発的「知り」が起こらない事、ではなく、知ることができない事、でしょう)。