「ゐしり(居領り)」。「ゐ」の脱落。「しり(領り)」はその項。居(ゐ)によってその域を独占支配する部分、の意(この場合の「ゐ(居)」とは、大地に根ざすようにそこに坐(ザ)すこと)。身体の、坐(ザ)した場合の、下地に密着する部分。身体の臀部。特に肛門を中心としたその周囲の筋肉や脂肪部分を言う。「ゐしき(居敷き)」とも言う。「ゐ(居)」によって敷(し)く身体部分、の意。身体部分たる「尻(しり)」を意味する「おゐど」という語もあるが、これは、御居処(おゐど)。(坐して)居る処(ところ)、の意。ものに比喩され、たとえば「椀のしり」は椀の底部。「けつ(尻)」はその項(2022年1月2日)。

「又(また)食物(をしもの)を大氣津比賣神(おほげつひめのかみ)に乞(こ)ひき、ここに大氣都比賣(おほげつひめ)、鼻(はな)口(くち)また尻(しり)より、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取(と)り出(いだ)して…」(『古事記』)。

「臋 ……和名之利 臋也…俗云井佐良比 㘴處也…」(『和名類聚鈔』:「臋」は「臀」と、「㘴」は「坐」と、同字。「井佐良比 (ゐさらひ)」は「ゐすわりはひ(居座り這ひ)」)。

人が進行する場合、頭がその進行の最始部になり尻(しり)が最終了部になる印象があり、この「しり」という語は進行する対象・ものごとの進行最終了部を意味し用いられます。その場合には「後」と書かれることが多い。たとえば川の場合、人はそこを上流方向へも下流方向へも移動するわけですが、そこを流れる水が、まるで世の支配が進行していくかのような印象になり、その進行は、源の知れない上流で始まり下流の果てで終了する。すなわち、「かはのしり(川の後)」や「かはじり(川尻・川後)」は川口(かはぐち:川の流れが海や湖に流れ出るところ)を意味する。川の一部を考えれば、下流域が「川のしり」。川が上流で始まり下流で終わるものごとなのです。道の場合もそれは都から始まり広がっていくものごとのような印象になり、ある地域の都から遠い部分が「道のしり」(「備前 岐比(きび)乃美知乃久知(みちのくち)」・「備中 吉備(きび)乃美知乃奈加(みちのなか)」・「備後 吉備(きび)乃美知乃之利(みちのしり)」(『和名類聚鈔』))。「帳尻(チャウじり)」は記述進行の最終了部。「目尻(めじり)」は顔の印象進行は中心へ向かっているということでしょう。「しりめ(尻目・後目)」は視界としての進行終了域であり、それを見る身体部分としての目(め)。そしてその視界。見られているそれは視界からなくなりそうであり、最も一般的なのは、正視しているでもなく入る横の視界。「Aを尻目に」は、Aをそうした視界終了域に見ながら自分は前進する(前進すればそれは視界から消える)。ただし、人の(典型的には女が男の)気をひくために目尻で視線を送ることを「尻目にかけ」と言ったりすることもある。「太刀のしり」はその末端。「衣(きぬ)のしり」は着物の裾(すそ)。「筆のしりとる博士ぞなかべき」(『源氏物語』:「なかべき」は、なかるべき、であり、博士(それを心得ている人)がいないのだろう、ということですが、「筆のしりとる」は、筆の運び進行の、つまり書き方の、仕上げ的終了部をうけもち不都合な部分は修正することでしょう)。この「しり」がものごと終了部の社会的影響まで意味することがある。まるで、尻からの排泄が社会的にも影響するかのような表現。「もし不調法の出来たときは其尻(そのしり)は親が引(ひき)うけてさはい(差配:処置)してくれる」(『松翁道話』)。