「しらぬに(知らぬに)」の「ぬ」が消えた表現。「ぬ」は否定。「に」は助詞であり、この「に」は「白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ」(万1107):白木綿花(しらゆふはな)の状態で落ちたぎちながら)、のように、動態を形容する「に」。そしてこの場合は、「A(白木綿花)にB(落ち)」の場合は、Aは名態・名詞。「しらぬに(知らぬに)」の場合はAは動態・動詞。しかも「しらぬ(知らぬ)」という、その否定。この「に」は順接も逆接も表現し、それが順接になるか逆接になるかは、「に」によってではなく、そこで言われていることの内容によって決まる。たとえば、「言われもせぬに買(こ)うてきた」は、買うことが言われることが条件になっている場合は、買えと言われもしないのに買ってきた、という逆接表現になり、それにより、無断で…という非難になるか、思いやりや配慮のある…という思いになるかはまた具体的事情により異なる。事実上、これはそうした逆接表現がほとんどすべてであり、順接表現の必要性は、買った行為が自主的なものか誰かに言われてなのかを確認する場合以外、ほとんどないでしょう。かといって、「動態の否定+に」という表現が常に必然的に逆接を表現するわけではない。「知(し)らぬに→しらに」も、知っていることが、それがおこなわれること、的確・適正におこなわれること、の条件になっている場合、それは逆接になる。つまり「知らぬにやった」が、知らないのにやった(知っていなければやってはいけないのだ)、の意になる。しかし、そうした条件がない場合もつねに逆接になるわけではない。それはただ、知らない状態でやった、という「に」による動態形容が表現されるだけであり、それは順接になる。

文法では、この「に」は否定の助動詞「ず(ぬ)」の連用形と言われている。

「水(みづ)溜(たま)る よさみ(余佐美:依網)の池(いけ)の 堰杙(ゐぐひ)打(う)ちが 刺(さ)しけるしらに(斯良邇)  蓴(ぬなは)繰(く)り 延(は)へけくしらに(斯良邇) 我(わ)が心(こころ)しぞ いや愚(をこ)にして 今(いま)ぞ悔(くや)しき」(『古事記』歌謡45:「(よさみのいけ)」は『日本書紀』崇神天皇六十二年十月に「造依網池」という記述がある。「堰杙(ゐぐひ)」は護岸の杙。「蓴(ぬなは)」は後世のジュンサイ。この歌は『日本書紀』歌謡36に同じような歌があります。この『古事記』の歌は、(標(しめ)があることを)知っていることが、それがおこなわれること、的確・適正におこなわれること、の条件になっているわけではなく、全体の歌意は、標(しめ)のあることを知らずにいて愚かだった、悔しい、と(父天皇たる応神天皇が)言っている(『古事記』のこの歌はそのように読める。しかし、同じような『日本書紀』歌謡45は息子たる後の仁徳天皇が天皇(応神天皇)の思いが及んでいることを知らず愚かでした、と歌っている歌に読める))。

「せむすべの たどきを知らに」(万904)。

「言はむすべ せむすべ知らに 岩木をも 問ひ放(さ)け知らず」(万794:「岩木をも 問ひ放(さ)け知らず」は、周囲のありきたりな岩や木も明瞭に分別できず、の意)。

「さ夜更けて ゆくへを知らに」(万3627:自分のこの先がどうなってしまうのかわからない状態で)。

「汝が母を 取らくを知らに 汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩(いかるが)と此米(しめ)と」(万3239:「いそばひ」は、何も知らずせわしげにしている、のような意。「斑鳩(いかるが)」「此米(しめ)」は小鳥の名。親が捕らえられるのも知らず囮(おとり)になっている小鳥が何かに夢中になってせわしげにしている、という歌)。

この「~知らに」という表現は『万葉集』にも非常に多いですが、この語の用いられ方は、「たどきを知らに」「たづきを知らに」「せむすべ知らに」といった慣用的表現が非常に多い。どうしたらよいか途方に暮れている心情を表現する。「動態の否定+助詞「に」」という意味のその動態はほとんどが「しり(知り)」であり、他の動態も、「かてに(かてぬに)」「飽(あ)かに(飽かぬに)」「得(え)に(得ぬに)」などありますが、極めてまれな例外です。ほとんどが「知らに」。