◎「しらじらし」(形シク)

「しら(常人態)」によるもの(A)と「しろ(白)」の情況化表現である「しら(白)」によるもの(B)の二種がある。

(A)は、常人態の状態であることを表現する「しら(常人態)」(→その項(1月19日)参照)による「しらしりあし(常人態知り悪し)」。「しら(常人態)」であることがどういうものであるかを知り「悪(あ)し」になっている、の意。たとえば、「知っている」という非常任人態であることが明瞭である者が「知らない」という一般的常人態を知っており、その態を現す(つまり、明瞭に偽(いつは)りとわかる態を現す)。それが「しらじらし」。

「何(いづ)れもいぬ(犬)とはみけれども………御馬候としきだい(色代:儀礼的応対)しける。けにしらしらしくこそみへにけれ」(「浄瑠璃」『大友真鳥』(藤原正信によるもの))。

「しらじらしい言い訳」。

(B)は「しろ(白)」の情況化表現であり、これに感嘆し、色として白い印象であることや、さまざまな意味で、色のない印象であること、さらには、事態が明白であること、を表現する。

「白雪のしらじらしくも…」(『重之集(しげゆきシフ)』:白く明瞭)。

「いみじう美々(ビビ)しうてをかしき君たちも、随身(ズイジン:護衛)なきはいとしらしらし」(『枕草子』:これは、色がない、ということですが、つまらない、というような意で言っている)。

 

◎「しらとほふ(枕詞)」

「しるやとほおふ(知るや遠追ふ)」。倒置表現になっており、いわゆる係り結び。遠く追うことは知るということか…、ということ。この表現が万3436では「をにひた(乎爾比多)」にかかっているわけですが、これは「小新田(をにひた)」であり、小さな、いま新たに開拓され開墾された田(た)。この語はそうした新たな開拓・開墾にかかる語でしょう。古代的に言えば「にひはり(新墾)」にかかる。では、「しるやとほおふ(知るや遠追ふ)→にひはり(新墾)」とはどういう意味なのか。「墾田(はりた)」「墾畑(はりはた)」「墾道(はりみち)」と、様々な開拓がおこなわれるわけですが、この開拓により自分は広がる、自分は大きくなる。それはなにかを追ってより遠くへと行くことなのです。際限なく遠くへなにかを追い、それはなにかを知ることか?ということです。さらに言えば、それにより自分が失われ、自分が知らないなにかになりはしないか、ということなのです。この表現は、枕詞ではあろうけれど、広くもてはやされるものではない。確実な用例は万3436、一例しかない。『常陸国風土記』「新治(にひはり)郡」の部分に「風俗諺云、自遠新治国」という記述があり、この「自遠」が「しらとほふ」である可能性はある。伴信友がこの「自」は「白」の誤字と言ったわけですが、意味としては「自」のままであり得る。

「しらとほふ(志良登保布)小新田(をにひた)山の守(も)る山の末枯(うらが)れせなな(末枯(うらが)れしませんように)常葉(とこは)にもがも」(万3436:これは上野の国(東国)の歌。「~なな」に関してはその項)。

 

◎「しらけ(白け)」(動詞)

「しら」は「しろ(白)」の語尾A音化・情況化であり、その動詞化「しらけ(白け)」は白くなること。自動表現。色として白くなることも言いますが、心情や場の情況として気持ちが浮き立つような色合いが失われることなども言う。隠されていたことが露見することも「しらけ」と言いますが、これは「知(し)り明(あ)け」でしょう。色がなくなることではない。

「黒かりし髪もしらけぬ(白斑奴)」(万1740:これは白髪になったということ。浦島太郎が玉手箱を開けたらそうなったという歌)。

 

◎「しらげ(精げ)」(動詞)

「しら」は「しろ(白)」の語尾A音化・情況化であり、その動詞化「しらけ(白け)」は白くすること。他動表現。客観的対象を白くし、語尾の濁音は持続を表現する。事実上、これは米にかんし言われる。すなわち、これを精米すること。それにより茶色の玄米が白くなるから。ものやことを磨き上げる、と言った意味でも言いますが、これは米に関する「しらげ」の意味転用でしょう。

「精 ……シラグ」(『類聚名義抄』)。「粺 ……与祢志良久」(『新撰字鏡』:「粺」は『廣韻』に「精米」とある字)。