古くは「しらき」と清音。朝鮮語(韓国語)では「シンラ(신라)」のような発音になっている。

「しら」は「しりはら(領り原)」の音変化。「しらら」のような音(オン)を経つつ「ら」は一音化した。「はら(原)」は、「うなばら(海原)」にあるような、海洋表面の意。「しりはら(領り原)」は、統治されている、事情のよく分かっている、海域、の意(「しり(領り)」はその項)。つまり、領海、ということです。具体的には日本・出雲(いづも:島根県北)から朝鮮半島南端へ至るあたりの海域でしょう。「き」は「き(城)」→「き(城)」の項。「き(城)」といっても、土地や建造物に関する特別な造作がなされているわけではなく、日常とは異なった持続的な「ゐ(居)」となる施設やその域が「き(城)」と呼ばれ、ある地域が漠然と「しら」や「しらき」と呼ばれた。統治感のある、事情の良く知られた海域にある地が「しら」の地という意味でそう表現され、それが国の名にも発展した。朝鮮・韓国の古い国名「シンラ(新羅)」は日本語です。「くだら(百済)」とおなじように名が生まれている→「くだら(百済)」の項(2021年10月19日:つまり、朝鮮半島を基点に考え、半島の東側が領海であることにより生まれている語が「しら(新羅)・しらぎ(新羅)」、半島の西側が領海であることにより生まれている語が「くだら(百濟)」)。「しら」というこの言葉は朝鮮半島にも広がり、そこにおける古い国の名になった。なぜそれが半島にも伝播しその地の国の名にもなったのかに関しては、相当に遠い古代から、日本列島には南方系・海洋系・舟系の民が多くおり、朝鮮半島には北方系・陸系・馬系の民が多くおり、半島と日本列島の間の行き来は、(そこは海なので)陸系・馬系の半島の民よりも海系・舟系の民により頻繁になされ、半島南端域東側あたりは海系・舟系の民により「しら」や「しらき」と呼ばれ、南下した陸系・馬系の民にはこの地域を特別に表現する総称たる名がなく、彼らもまたそこを「しら」と呼んだ、ということでしょう。古代における朝鮮半島と日本列島の文化的交流は半島の民が半島・列島間を行き来することよりも、列島の民がその間を行き来し行われることの方が盛んだったものと思われます。古代、朝鮮半島から日本列島へ伝わった文化の重要なものの一つとして騎馬文化がありますが、これも、半島の民が行き来して伝えたのではなく、列島の民により伝えられたものでしょう。言うまでもなく、騎馬民族なるものが馬に乗って海を渡るなどという馬鹿馬鹿しいことは起こらない。

『日本書紀』神代紀の「一書」に「素戔鳴尊(すさのをのみこと)」が「新羅国(しらきのくに)」に降(あまくだ)ったとあり、これは『日本書紀』に見える外国名の最初、ともいわれますが、この表現と表記は後期のものであり、原意としては「しらき」は外国名ではない(この言葉が生まれたとき「しら(新羅)」や「しらき(新羅)」という国はなく、それは国名ではない)。それは、領海地域、のような意味です。

 

朝鮮半島における古い国名「新羅(シラ)」には「ソナポル」という別称のようなものもある。代表的な多くの表記は「徐那伐」。「徐羅伐(ソラポル)」「徐耶伐(ソヤポル)」「徐伐(ソポル)」等とも書く。この「ソナポル(徐那伐)」は、「宣安罰(ソン・アン・ポル)」の音変化でしょう。「ポル」は「罰」の朝鮮・韓国語音。「安(アン)」は、処罰されない、罪とならない、平安な状態を意味し、「罰(ポル)」は、処罰される、罪となる、状態を意味する。そのどちらであるかを宣(セン・ソン)することが「宣安罰(ソン・アン・ポル)」。そのような判断と宣言(つまり裁き)を行い、それを実効的に執行する者、あるいは者たち、すなわち刑罰権を把握しそれを執行する者、あるいは者たち、それが「ソナポル」と呼ばれた。つまり、古代の朝鮮・韓国では、国の統治、その権威・権力の中枢的意味は刑罰だったということであり(中国の原初的な国号「商」も刑罰権を表現している)、「ソナポル」は国の統治中枢主体を表現した中国語による素朴な表現だということです。すなわちこれは国の名、国号ではない。これは政府を意味している。なぜそれが中国語でなされたのかと言えば、政府を意味する言葉、たとえば古代の日本語で言えば「みかど」のような語、が古代の朝鮮・韓国にはなかったからでしょう。当時、朝鮮半島には国も政府もなかったということです。

「新羅(しら・しらき)」は上記のような日本語ということですが、全く一般化していませんが、朝鮮半島の「新羅(シルラ)」では、「鶏林(ケイリン)」その他(なぜ「鶏(にはとり)」の「林(はやし)」なのかに関しては故事がある)、いくつもの国号が言われている。なぜそのように幾つもの国号を言ったのかと言えば、長い年月を経、彼らはなぜ自分が「シンラ」なのか分からなかったからです。なぜ分からなかったのかといえば、それが日本語だから、ということです。