「しれあげはひ(痴れ上げ這ひ)」。「しれ(痴れ)」は知的理性的に機能喪失することですが(その項)、「しれあげ(痴れ上げ)」は完全に(上げ、の完成感をもって)機能が、とりわけ知的理性的機能が、喪失したような状態になること。自己反省が働かない状態になっている。「はひ(這ひ)」は感覚的にその動態が触れる、感じられる、情況になること。「見えしらがひ」の「見え」は受け身であり(「みえ(見え)」の項参照)、それは見られることに知的理性的機能が喪失したような状態になること。つまり、見られること、自分が意識されることに夢中になり我を失ったような状態になっている。「奪ひしらがひ」は奪い合うことに心が奪われ、無我夢中になり、完全に痴れてしまったような状態になること。この語は「しらがひ」だけが独立して用いられることはなく、常に、他の動態につきその動態が「しらがひ」の状態になっていること、その動態に夢中になり我を失ったような状態になっていること、が表現される。
「のち、ならひたるにやあらん、つねに見えしらがひありく」(『枕草子』:ならひ覚えてしまったか、つねに見られるように(自分を意識してもらいたがっている状態で)歩く)。
「(商人(あきびと)の中の一人が)海におち入(いり)ぬ。羅刹(ラセツ)ばひ(奪い)しらがひてこれを破(やぶり)くひけり」(『宇治拾遺物語』:夢中になつて奪い合いこれを食った)。