◎「しらが(白髪)」

「しらけら(白毛ら)」。語尾の「ら」は複数。白い毛の情況にあるもの、の意。「白香付(しらかつく)」(万2996)という表現があり、たぶん古くは「しらか」と清音でも言われたでしょう。

「我がたもとまかむと思はむ大夫(ますらを)は戀水𡨃(もと)め白髪生ひにたり」(万627:「まかむ」は「将巻」と書かれていますが、これは枕にするイメージであり、「巻(ま)き」がかかりつつ、意味は「設(ま)き」による「設(ま)かむ」でしょう。「Aを設(ま)き」はAが思念化しAを期待的に思う状態になる(→「まけ(設け)」「まき(設き)」の項)。「まかむと思はむ大夫(ますらを)」は、期待することもありそうな大夫(ますらを)、といった微妙な表現になる。「戀(恋)水」は、それ以前には義訓により「なみだ」と読まれていたのですが、昭和初期に、ある民俗学者が「戀(恋)」は「變(変)」の誤字とし「をちみづ(越水・若水:若返りの水)」と読み、以来、それが定説になっています。思うに、これは語字はなく、単純に「こひみづ(恋水)」でしょう。これを歌った女性がそれによりなにごとかを表現しようとしたのです。なにを表現しようとしたのかと言えば、人を恋ふことによりあふれる水…涙(なみだ)、がまず表現される。そして、恋(こひ)三(み)つ、が暗示される。男が恋ひ、女が恋ひ、その二つの恋が…という関係ではなく、恋(こひ)が三つある。どういうことかというと、浮気です。この「万627」は佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)という人物から送られてきた歌に娘子が報(こた)へ送ったものですが、この佐伯宿禰赤麿という人物は万404から6にも「娘子」(627と同一人物かは不明)とのやりとりの歌があり、そこでは、奥さんを大事にしなさい、と「娘子」にたしなめられている。ようするに、白髪生ふるような齢でそういうことをさかんにやっている人物なのです。この万627に対する男の返歌は「戀水はかにもかくにも求めていかむ」(万628)というものであり、言われたことの意味もわからず、まったく反省もしていない)。

 

◎「しらかつく」

「しらかつく(白髪つく)」。「つく」は、付く、ですが、「色気づく」などにあるような、何かの印象になること→「つき(付き・着き)」の項。「しらか(白髪)」はその項。つまり、「しらかつく(白髪つく)」は、白髪の印象になる、の意。この語は、語義未詳、とされ、この語のある万2996も正確には理解されていない。また、この語は「ゆふ(木綿)」にかかる枕詞とされていますが、そうではなく、偶発的な表現でしょう。

「しらかつく木綿(ゆふ)は花(はな)もの事(こと)こそば何時(いつ)の真枝(まえだ)も常(つね)忘(わす)らえね:白香付 木綿者花物 事社者 何時之真枝毛 常不所忘」(万2996)。「花(はな)もの」は、花やかだがすぐに散るもの、の意。「しらかつく(白髪つく)木綿(ゆふ)は花(はな)もの」は、白髪のような印象の(老い先まで約束するような)、(真っ白な繊維の)木綿(ゆふ)は(神への供物にもされるが)花やかだがすぐに散る虚(むな)しいもの、ということ。この「ゆふ(木綿)」には「ゆふ(言ふ)」がかかっているでしょう(この変化は古代でもあり得るでしょう)。「何時(いつ)の真枝(まえだ)も」は、どのようなときの、(ものごととして幹(中心)ではない)枝葉(えだは)の、枝葉末節の、ありきたりな取るに足らないことも、ということ。全体の歌意は、一生を約束するような言葉も花やかだがすぐに散るむなしいもの、日常のありふれた事(こと:行動)こそ永遠に忘れられないものだ。