国語学者が助動詞「しも」(連用形)を言い辞書の項目にもなっているのでここでもそうなっていますが、問題は、室町時代のある独特な言い回しです。たとえば「死なしまうたと不思(思わぬ)が臣子の道の心ぞ」(『史記抄』(1477年))の場合、「しまう」が助動詞(連用形「しも」・終止形「しむ」などの連用形?)と言われるわけですが、この「死なしまうた」の「死なしまう」は「しにあはししまへゐ(死に合はしし間へ居)」。「しにあはし(死に合はし)」の「あはし(合はし)」は「あひ(合ひ)」の使役型他動表現であり、「(その場に)行き合はせ・行き合はし」が、使役が自己を使役しそれが理性化となり、その理性化が表現の客観性となり、行き、遭遇していることを客観的に表現する。つぎの「し」はいわゆる過去の助動詞「き」の連体形と言われる「し」。最後の「まへゐ(間へ居)」の「ま(間)」は時間域であり、「へ」は目的への進行感・方向感を表現する助詞の「へ」であり、そこへ「居(ゐ)」という表現、「間に居」ではなく、「間へ居」という表現は(「間(ま)」がある情況を意味しつつ)ある情況へ入ることを表現する。音変化としては「まへゐ」が「まう」になっている。すなわち「死に合はしし間へ居(しにあはししまへゐ→しなしまう)」は、死んだ情況へ行く、そんな思い・心的状態になる、という意味になる。「死なしまうた」の最後の「た」は「たり」の「り」の脱落。すなわち「死なしまうたと不思(思わぬ)が臣子の道の心ぞ」は、死んだような思い、そんな心的状態になって思わないのが臣子の道の心だ、と言っている。
この「まう」は「も」や「む」にも音変化する。「まへゐ(間へ居)」に「→まう→も」という変化もあれば「→めゐ→む」という変化もあるということ。「ま(間)」の語意が強くいきていれば「も」になるでしょう。
「怪其奢トハ、衣裳車馬カ奢タト思フソ。何トシタレハ、廉直ナ人ヂヤカ(が)アレヲモタシムツラウト云ソ」(『蒙求抄(モウギウセウ)』(1638年):これは文頭の「怪其奢」の意味を説明しているわけですが、最後の「モタシムツラウ」は、持ち合はしし間へ居つらむ(もちあはししまへゐつらむ→もたしむつらう(モタシムツラウ):(どうすれば、廉直な人だが)持つ機会にあるのだろう(それに続き、自ら黄金を作り、といったことが言われている)ということ。この「シム」は文法では助動詞「しも」の連用形ということになるのでしょう)。
「田ツクルヘキ牛ナリトモ殺テモテナサシマヘト云ソ」(『四河入海(シガニッカイ)』(1534年):これは「まへゐ(間へ居)」の「ゐ(居)」がない表現。「まへ(間へ)」(そうした情況へ)ということであり、そうしろ、ということ。この「シマヘ」は文法では助動詞「しも」の命令形ということになるのか)。
「ナセニ………客人スキナ人ノ処へユカシマヌソ」(『四河入海』:これは「まあはぬ(間合はぬ)→まぬ」でしょう。「ユカシマヌ」は「行(ゆ)き合(あ)はしし間(ま)合(あ)はぬ」(行くはずの情況へ行かない、行くと思われるのに行かない)。この「シマ」は文法では助動詞「しも」の未然形ということになるのか)。
「有様(ありヤウ)に言はしめ」(「狂言」:言ひ合はしし間へ(いひあはししまへ)→いはしめ。言いなさい)。「のかしめ」(「狂言」:退き合はしし間へ(のきあはししまへ)→のかしめ。退(の)きなさい・どきなさい)。
どのような品詞を考え、それにどのような品詞名をつけるかは国語学者の自由であり、それが国語学者の学問努力にもなっているわけですが、これに関し助動詞「しも(終止形は、しむ?)」を言う必要はあるでしょうか。