「しひむを(強ひむを)」。「ひ」のH音は退行化した。「しひ(強ひ)」はその項(原意は、運命必然的な絶対的な意思を伝えることであり、意思になく、や、意思に反し、ある意思が(あるいは、なにごとかが)実行され現実化されること。「む」は文法で言う意思・推量の助動詞であり、ここでも意思の場合もあれば推量の場合もある。「を」は状態を表現する→「を(助)」の項。この「を」は、よく知られる表現「瀬を早み(瀬の状態で早まり)」のように、続く動詞が自動表現の場合状態を表現し(「早み」は自動表現)、たとえば「故(ゆゑ)しもあり」と言った場合、「む」は推量であり、「ゆゑしもあり→ゆゑしひむをあり(故強ひむを有り)」は、故(ゆゑ)を(世に)強いるであろう状態で、ある、人々がその意思にかかわらず故を強いられる状態で、ある、という意味になる。つまり、故(ゆゑ)が、有無の意思にかかわらず、絶対的にある。この「しも」は一般に、なにごとかを強調する、と言われるわけですが、たしかに強調の印象は受けますが、それは、強調というよも、絶対的主張。絶対的に現実化される意思の現れ。

 

「絶えず行く明日香の川のよどめらばゆゑしも(故霜)あるごと人の見まくに」(万1379:故(ゆゑ)のあることが世に強いられ、人々の思いにかかわらず故があるごと…)。

「下枝(しづえ)の 枝の末葉(うらば)は……瑞玉盞(みづたまうき)に…落ちなづさひ 水(み)なこをろこをろに 是(こ)しも(許斯母) あやにかしこし」(『古事記』歌謡100:この「しひ(強ひ)」は大いなる自然の意思・神の意思の現れたるそれ。「む」は意思。これは誰もが絶対的にそうあらねばならないこととして畏(かしこ)し、と言っている。「水(み)なこをろこをろ」ではイザナキ・イザナミによる島生みが印象化されている。あなたは島生みをなさるほどの方で、盞(さかづき)に落ちた木の葉もその結果たる尊いことだ、ということ。この歌は盞(さかづき)に木の葉が浮いていたことを怒った天皇の怒りをしづめた歌)。

「大船に楫(かぢ)しも(之母)あらなむ君なしに潜(かづ)きせめやも波立たずとも」(万1254:大船には梶(かぢ)は強いる状態で、楫は必ず、ありなさいな…(あなたの楫は信用できるのかしら…あなたなしに私は潜きはできない))。

「旅に去(い)にし君しも(志毛)継(つ)ぎて夢(いめ)に見ゆ吾(あ)が片恋(かたこひ)の繁(しげ)ければかも」(万3929:私の意思などに関係ない大いなる意思、神の意思であるかのような状態であなたの夢をみる)。

「木綿(ゆふ)たたみ田上(たなかみ)山のさな葛(かづら)ありさりてしも(之毛)今ならずとも」(万3070:この「しひ(強ひ)」は大いなる自然の意思の現れのようなそれ(→「しひ(強ひ)」の項)、「む」は推量。永遠にこのままいつづけ、今でなくとも、のような意)。

「(光源氏は)山賤(やまがつ:樵(きこり)など)めきて…………うちやつれて、殊更(ことさら)に田舎びもてなし(ふるまい、さまざまなことに対応し)たまへるしも、いみじう、見るに笑まれて、きよらなり」(『源氏物語』:田舎びた、そんな様子になっても)。

「白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる」(『源氏物語』:そんなことでそんなことが起こることは想像もできない思いに関係なくそれは起こり、単なる白い紙に捨て書きにしたのにそれは心惹かれるものだった。この「む」は推量。ただの白い紙に捨て書いただけなのに、のような意味になる)。

「こなたはあらはにやはべらむ(ここは人目につくのではありませんか?)。今日しも、端におはしましけるかな。この上の聖の方に、 源氏の中将の瘧病(わらはやみ)まじなひにものしたまひけるを」(『源氏物語』:今日とは誰も思わない状態で今日、源氏の中将が来ている今日、こんな人の目につくところにいる)。

「かしこには、 今日しも、宮わたりたまへり」(『源氏物語』:そんなことがあるのかと思うが、今日。源氏が朝帰りして後朝の文を送った、その日。この「む」は意思)。

「をりしも(折しも)」。折りは機会であるが、その機会が、期待もしていないのに従わざるを得ない自然の意思の発動のようにやってくる。「ときしも(時しも)」も同じような意味になる。「『いでや、(紫上は)よろづ思し知らぬさまに、大殿籠もり入りて(なにも知らぬさまで寝所でおやすみになって)』など(源氏に)聞こゆる(申し上げる)折しも、(紫上が)あなたより来る音して」(『源氏物語』:「いでや」は、さぁ…どうすれば、のような、どう対応したらよいのかわからない、というあいまいな返事)。

「だれしも(誰しも)」。そんなことはないと思われるような誰であっても。「だれしもがそう思った」。

 

・「かならずしも(必ずしも)」:「かならず」を、すなわち「疑問なく」を、強いる状態で。疑問なくと思う状態で:「かならずしもそうなるわけではない」(「かならず」を強いる状態で、そうなるわけではない。疑問なくそうなると思われる状態で、そうなるわけではない):「かならず」と「かならずしも」は意味は似ており、「かならず~ではない」と「かならずしも~ではない」という否定を伴う表現がどちらにもある)。

「杜撰(づさん)麁漏(そろう)は稗官者流(はいくわんしやりう:作り物書きのやり方)の往来(もちまへ)なれば必(かなら)ずしも論じて意中をそこね玉ふな」(『西洋道中膝栗毛』:けして論じて意中をそこねないでください)。

「『…かならずしも人情によつて、公道を忘るべからず』」(『椿節弓張月』:まったく疑問反省もなく人情によってしまい…。「かならずしも」→「忘るべからず」、ではなく、「かならずしも」→「人情によって」)。

「Canarazuximo(カナラズシモ) cocoroniua(ココロニハ) betno(ベツノ) facaricotoga(ハカリコトガ) arŏzo(アラウゾ)」(『天草版 伊曾保物語』:疑問なく、心には別のはかりごとがある。「かならず」強ひむを→ある、「かならず」(疑問なく)を強いる状態で、ある、ということ)。

 

・「Aしもあらず」や「Aしもなし」「Aにしもよらず」などのように「しも」が否定される場合、「しひむを」の「を」は逆接として作用し、Aであることがそうある絶対のこととして聞こえはするがそうはならず、のような意味になる。

「然(しかる)に今(いま)の間(ま)此(こ)の太子(ひつぎのみこ)を定(さだ)め賜(たまは)ず在(ある)故(ゆゑ)は、人(ひと)の能(よ)けむと念(おもひ)て定(さだむ)るも必(かならず)能(よく)しもあらず、天(あめ)の…」(『続日本紀』宣命:疑問なくよいわけではなく)。

「必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。」(『方丈記』:疑問なく禁戒をまもるというわけではないが…。「境界(キヤウガイ)」は環境であり、客観世界ですが、主と客がなくなれば、ということか)。

「月夜よしよ(夜)よしと人につけ(告げ)やらは(ば)こてふ(来てう・来という)ににたり(似たり)またす(待たず)しもあらす(あらず)」(『古今集』:待たないというわけではない。順接の場合、待たない状態にない)。

「かならずしもあるまじきこと」は、「~まじ」は否定の意になるので「を」は逆接のような印象を受けますが、ここに否定の語はなく、これは、疑問なく(かならず)、強(し)いる状態で(しも)、あるということは人としてあり得ないこと(あるまじきこと)→常にそうなるわけではない(それがあたり前というわけではない)、という意味になる。「かくて京へいくに、島坂にて、ひと、饗(あるじ)したり(客として招きもてなしてくれた)。かならずしもあるまじきわざなり。立ちて(去って)行(ゆ)きしときよりは、来るときぞ人はとかくありける」(『土佐日記』:もてなされたが、それがあたり前というものではない。そうなった理由を、紀貫之は、人は他の人が去るときよりも来るときの方がいろいろなことを考えてその人に対応するものなのだ、と思った。たぶん、この人は、京を出る時にはなんの挨拶もなかったのでしょう)。

 

・「Aしも(こそ)あれ」の場合は「あれ…」という已然形の判断不決定性により、Aであることがそうある絶対のこととして聞こえはするが…といった表現になる。

「時(とき)しもあれ秋やは人のわかるへきあるを見るたにこひしきものを きのとものりか身まかりにける時よめる(詞書)」(『古今集』:その時ではあるが…。秋にあの人は別れるのか? 生きてただふつうにあるのを見るだけでも恋しいのに。「をりしもあれ(折しもあれ)」という似たような意味の表現もある)。

「『こと(事)しもこそあれ、うたてあやし』」(『源氏物語』:事に強いられやむにやまれずそうなっているのではあろうが(やむにやまれぬ思いでそんなことを言った(そんな歌を送った)のではあろうが)…)。

「『…世に道しもこそはあれ』などいひ罵(ののし)るを聞くに」(『蜻蛉日記』:『世に行くべき道はあるのに(なぜわざわざこの家の前を通る)』など言い騒ぐを聞くに)。