◎「しも(下)」
「しいみを(為忌み(斎み)緒)」。語頭の「し」は動態が関与していること、それが意思的・故意的な動態であることを表現する→「し(為)」の項参照。この場合の「いむ(忌む)」は、遠慮する、のような意。「を(緒)」は子孫(一族)を意味する→「いも(妹)」の項参照。「しいみを(為忌み緒)→しも」は、意思条件下に忌む状態になる者たち、の意。どういうことかというと、何らかの必要性があり、古代において、一族の者が集まったとする。その者たち(それはすべて「を(緒)」です)の関係においてAがBを忌み(AはBに遠慮し)、BがCを忌み(BはCに遠慮し)、という関係にある場合、AはBの「しいみを(為忌み緒)→しも」(Bに対し意思的・故意的に忌む状態になる者)であり、BはCの「しも」(Cに対し意思的・故意的に忌む状態になる者)です。つまり、ABCの中でAが最も「しも」であり、「しも」にいる。これは座す位置にも影響したでしょう。「かみ(上)」と「しも(下)」は古代における族内の権威関係に由来する表現です(「かみ(上)」の項も参照・2021年6月14日)。
この忌む者と忌まれる者との関係はさまざまなことへと意味展開していく。たとえば時間。上記のような場において、忌む者・Aと忌まれる者・Bの関係が生じる場合、人の生態の自然なあり方として、BはAよりも年上であり、ときには親子や孫子ほどの違いもあったかもしれない。つまり、BはAよりも先に生まれており、相対的に、Bは先にあり、Aは後(のち)にある(「かみ正暦のころほひより、しも文治の今にいたるまで」(『千載集』序))。それは人が先におこなうことに対する後(のち)におこなうことでもあり(「上(かみ)の句、下(しも)の句」)。そこにおける、見上げる者と見上げられる者との関係のような権威関係性は人の価値評価や社会的なこととしても表現され(「人まろ(柿本人麻呂)はあか人(山部赤人)がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける」(『古今集』序)、「大唐(もろこし)の使人(つかひ)裴世淸(はいせいせい)・下客(しもべ)十二人(とをあまりふたり)、妹子臣(いもこのおみ)に從(したが)ひて筑紫(つくし)に至(いた)る」(『日本書紀』、「しもじもの者に対するおかみの御配慮」)。それは物的空間的上下関係にも表現は及び、ある対象とある対象との関係においては地球中心により近い側が「しも」となり、遠い側は「かみ」となり、その間を水が流れれば水は上(かみ)から下(しも)へと流れる(「隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の河(かは)の 上(かみ)つ瀬(せ)に 齊杭(いくひ)を打(う)ち 下つ瀬(しもつせ:斯毛都勢)に 眞杭(まくひ)を打(う)ち…」(『古事記』歌謡90:万3263にほぼ同じ歌がある))。ある対象自体においても遠い部分が「かみ」であり、近い部分が「しも」(人の体に関し「しも」といえば下半身)。地域的には、相対的に、都からより遠い域が「しも」、近い域が「かみ」(「しもつけ(下野:ほぼ後の栃木)・かみつけ(上野:ほぼ後の群馬)」:なぜ群馬が「かみ」かというと、昔の路で京都方面から栃木より近いから)。
◎「しも(霜)」
「しみふを(凍み生緒)」。「を(緒)」は紐状の長いものを意味する。「しみ(凍み)」は凍(こほ)ること。「ふ(生)」は、(とりわけ植物の)発生情況(繁茂)を表現する→「しばふ(芝生)」「よもぎふ(蓬生)」。「しみふを(凍み生緒)→しも」は、凍って繁茂した紐状の長いもの、の意。冷却した空気中の水蒸気が氷の結晶として地表その他に堆積したもの。とくに、地表で柱状に育つもの。これが現れることは「しもがおく(置く)」や「しもがふる(降る・零る」という言い方をする。この「おく」は対象に働きかける他動表現ではなく、自動表現。対象化し現れる、ということ。「髪に霜おく」が、髪が白くなったこと→年をとったことを意味したりもする。
「葦辺(あしべ)行く鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕(ゆふべ)は大和し思ほゆ」(万64)。
「霜 ………和名之毛」(『和名類聚鈔』)。