「しみまはしくも(浸み間愛しくも)」。この「ま(間)」は、時空Aの中のAではない時空。「はし(愛し)」は感嘆が表現されるシク活用形容詞。この「はし(愛し)」は感嘆の長い吐息、ため息をつくような心情を表現し、美しく愛らしい人を見ている「はし」もあれば、最愛の人の墓処を遠く見ている「はし」もある。「しみまはしくも(浸み間愛しくも)→しましくも」は、心や身に浸(し)みる(深く浸透的に影響する)間(ま)に感嘆して、ということなのですが、その感嘆は時空Aの特性によって起こり、「ま(間)」がその時空Aのようでないことにより感嘆され時空Aへの思いが表現される。その間(ま)が時空Aのようであればいいのに、ということです。時空Aに間(ま)があることにより時空Aへの思いが表現される。
この語は、さまざまな表記がなされ「しましく」という語が一般に辞書の項目になる。その場合は「しまし(暫し)」に副詞語尾の「く」がついている、という説明になる。しかし、『万葉集』に多数ある「しましく」はほとんどが「しましくも」であり、「しましくは(須臾者)散りな乱れそ」(万1747)、「しましくは(暫)八十(やそ)の舟津に」(万2046)といった読みがなされているものもありますが、「しましく~」で「しましくも」以外の表現はたぶんこの二例だけでしょう。つまり、原形は「しましくも」であり、「しましくは」という表現がもしあったとしても、それは「しましくも」の影響により「しましく」が、形容詞連用形のように、その動態が少しの間であることを表現したということでしょう。
「筑紫道の可太の大島しましくも(思末志久母)見ねば恋しき妹を置きて来ぬ」(万3634:見ない間(ま)が愛(は)し、という思いで恋しい妹)。
「思ふゑに逢ふものならばしましくも(之末思久毛)妹が目離れて我れ居らめやも」(万3731:妹が目離れて我が居る間(ま)、そんな間(ま)はありえない、と言っている。二人は常に逢っている。それほど私はあなたを思っている)。
「吉野川行く瀬の早みしましくも(須臾毛)淀むことなくありこせぬかも」(万119:間(ま)なく淀まずことがすすまないものか、と言っている)。
「能登川の後にはあはむしましくも別るといへば悲しくもあるか」(万4279:後にはまた会えるが、ひとときでも別れると言えば悲しい)。