「しめし(為見し)」。語頭の「し」は動態が意思的・故意的な動態であることを表現する(→「し(為)」の項)。動態が何らかの意思の条件下にある。「めし(見し)は」動詞「みえ(見え)」の他動表現。意味は、見えることをさせること、見える状態にすること。「みせ(見せ)」は「み(見)」という動態を他に働きかけ生じさせる努力たる「み(見)」の他動表現。「みえ(見え)」の他動表現がなぜ「めし」になるかにかんしては、たとえば「もえ(燃え)」(自動)・「もやし(燃やし)」(他動)、「ふえ(増え)」(自動)・「ふやし(増やし)」(他動)という変化が「みえ(見え)」(自動)に起きている場合、その他動表現は「みやし(見やし)」になると思われるのですが、この「見(み)や」という、「見(み)ゆ」の活用語尾がA音化・情況化した表現が、動態「み(見)」が直接に表現され「め(見)」になっているということ。なぜそうなるのかと言えば、「もえ(燃え)」「ふえ(増え)」の「も」や「ふ」は擬態・擬音や客観的動態表現でありそうしても動態保存要請は働かないが、「みえ(見え)」の「み」は擬態・擬音でも客観的動態表現でもなく、動態保存要請が働くから。動態「み(見)」がその情況化・A音化とそれによる意味不明化を回避するため「み(見)」のI音と情況化のA音化が妥協しE音化することに関しては、動詞「見(み)」に尊敬の助動詞「し」がついた場合、「まし」ではなく、「めし(見し・召し)」になることと同じです(→「めし(召し)」の項)。仮名表記は「召(め)し」の「め」も「示(しめ)し」の「め」もどちらも甲類「め」。すなわち、「しめし(示し)」は意思的・故意的に見えることをさせること、見える状態にすること。

 

「まそ鏡かけてしぬへ(之奴敝)とまつり出す形見のものを人にしめす(之賣須)な」(万3765:この歌は「之奴敝(しぬへ)」が問題になる。この「奴(ヌ)」は、「努(ノ)」や「怒(ノ)」の誤りかなどと言われつつ、歌は「しのへ(偲へ)」で解されている。しかし、なんの曇(くも)りもなく、なんの疑念もなく、偲(しの)へとまつり出した形見のものを人に見える状態にするな、は歌意として奇妙です。この「之奴敝(しぬへ)」は「死(し)ぬへ」でしょう。「へ」は助詞。「しぬ(死ぬ)」は終止形。その「しぬ(死ぬ)」は、これから死ぬのではなく、死んでしまった、ということ。そういう意味で「死ぬへ」とはどういうことかというと、私は死んだ、命は捨てた思いにある、ということ。歌意は、なんの曇(くも)りもなく、なんの疑念もなく、私はあなたのために命は捨てた、その思いとして神意とともに出す(あなたに現す)(私の)形見のものを人に見える状態にしないでください。私はあなただけの中でのみ生き続けます。ちなみに、「偲(しの)ひ」に関しては、同じ人物による次の万3766に「しのはせ(偲はせ:之努波世)」がある)。

「にほ鳥の潜(かづ)く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね」(万725:長く水にもぐるニホドリのように、私の胸の内は苦しいということか)。

「我妹子に猪名野(ゐなの)は見せつ名次(なすき)山角(つの)の松原いつか示さむ」(万279)。

「誨 ヲシウ シメス」(『法華経音訓』:なにごとかの結果を想的に見える状態にすればそれは「をしへ(教へ)」になる)。

「太鼓(太鼓持ち)女郎にも大形成(おほかたなる)わけは見ゆるし、宿の男などゝの事は、末(すへ)に名の立(たつ)をひそかにしめし、やり手がよく計(はかり)の算用もきかず…」(『好色一代男』:「やり手がよく」は、気前(金払い)がよく、ということか? 遣手婆が金のことを言わないのか?。たぶん前者)。