「しみゐは(浸み居葉)」。「は(葉)」は時間を意味する(→「はは(母)」の項)。「しみゐは(浸み居葉→しま」は、浸 (し)み(動進行的に影響し)存在化している(居(ゐ):「有り」になっている)時間、の意。影響進行があり在(あ)りになっている時間。時間は認識であり、認識たる時間が生まれ、動きはじめ、動き続ける場(ば)。つまり、人の生活の場です。日本の神話にある「しまうみ(島生み)」とはそういう意味です。それは人の生活の場が生まれたのであり、時間が生まれた。すなわち、時空が生まれた。後には人は自分が立ち自分が日常的に生活しているその場(ば)は特別な自覚はなくなりそれを「しま」とは思わなくなり、海の向こうに見える、人が立って活動できそうな、さらには生活できそうな、場を「しま(島)」と呼ぶ(泳がねばならない状態になっていたとしても島にたどりつけば安堵できるわけであり、「とりつくしまも無い」の「しま」は「しまは(島端)」。島の、欠片(かけら)のような、はしくれ)。

「故(かれ)、二柱(ふたはしら)の神(かみ)、天浮橋(あめのうきはし)に立(た)たして、其(そ)の沼矛(ぬほこ)を指(さ)し下(おろ)して畫(か)きたまへば、鹽(しほ)ここををろろに畫(か)き鳴(な)して引(ひ)き上(げ)たまふ時(とき)、其(そ)の矛(ほこ)の末(さき)より垂(したた)り落(お)つる鹽(しほ)、累(かさなり)積(つも)りて、嶋(しま)と成(な)りき、是(こ)れ淤能碁呂(おのごろ)嶋(じま)なり」(『古事記』)。

「大伴の御津(みつ)に船(ぬな)乗(の)りこぎ出(で)てはいづれの島(しま)にいほりせむ吾(われ)」(万3593)。

「島嶼 説文云島海中山可依止也……和名之萬」(『和名類聚鈔』)。「嶋……シマ」(『類聚名義抄』)。