「うつりいろおひ(移り色覆ひ)」。「うつり」は、「うつり(写り・映り)」ではなく、「うつり(移り)」。それも、基本は、ものの移動・物的移動ではなく、ことの移動・現象の変化。「いろ(色)」は様子・印象を意味する(→「かほいろ(顔色)」)。「おひ(覆ひ)」は対象感をもって全的に作用すること→「おひ(覆ひ)」の項。ここで、全的に作用する、とは、対象全体がそうした情況動態になること。すなわち、「うつりいろおひ(移り色覆ひ)→うつろひ」は、現象変化の様子が全的情況動態として感じられ現れること。たとえば、花がうつろへば、花というものが、ではなく、花ということが、花という現象が、変化する。
「紅葉(もみぢば)は今はうつろふ(宇都呂布)我妹子(わぎもこ)が待たむと言ひし時の経ゆけば」(万3713:この歌、「うつろひ」によって無常な空(むな)しさが表現されること(下記)の影響でしょう、紅葉は散っていく、我妹子(わぎもこ)が私を待つといった時は過ぎ(もう待ってくれていないかもしれない)、といった理解がなされることが一般のようです。しかし、そういう歌ではないでしょう。この「うつろふ」は、散ったり枯れたりしているわけではなく、季節の変化という定めを受け鮮やかにその色彩は燃え盛る時期を迎えようとしている。あの人が『待つ』と言ったその時が流れ、ということであり、あの人はそれほどに私を待ち、会いたがっている、私も会いたい、ということでしょう。一般のように解したのでは、次の万3714「秋されば恋しみ妹を…」その他、その周囲の歌との調和も壊れこの歌は異様な歌になる。このあたりには新羅使として派遣された者たちの旅の途上の歌が集められている)。
「神無月(かむなづき)時雨(しぐれ)もいまたふらなくにかねてうつろふ神なひ(び)の森(もり)」(『古今集』:この「うつろふ」も、枯れたり散ったりしているわけではない。神と言っていい大いなる自然の意思の現れとして変化している。色づき、黄葉が始まっている。「しぐれ(時雨)」という語は夏の、活発な躍動感のある癒えから、冬の沈静化して穏やかな癒えへと変化していくことを表現する。つまり、秋になり秋が深まること(つまり、冬になっていくこと)を表現する→「しぐれ(時雨)」の項・9月23日)。
・この「うつろひ」という語は、仏教の無常観の影響でしょうけれど、この語により、ある現象が常ならぬ空(むな)しいこととして表現されることが多い。たとえば盛りの花もうつろひ、色褪せたり散ったりしていく。しかし、それは、「うつろひ」という動詞により無常観が表現されたということであり、「うつろひ」がそれ(常なき虚(むな)しさ)を表現することを本質とする動詞というわけではない。表現されることは、あくまでも、事象の変化であり、ある事象が変化動態にあることです。
「世間(よのなか)を常なきものと今ぞ知る平城(なら)の京師(みやこ)のうつろふ見れば」(万1045:世は無常だ、ということです)。
「白菊の うつろひゆくそ あはれなる かくしつつこそ 人もかれしか」(『後拾遺和歌集』:これは「かれ」に「枯(か)れ」と「離(か)れ」がかかっているということでしょう)。
「たれこめて 春のゆくへも しらぬまに まちし桜も うつろひにけり」(『古今集』:これは「心地そこなひてわつ(づ)らひける時に、風にあたらし(じ)とておろしこめてのみ侍りけるあひた(だ)に、をれる(咲き茂る)さくらのちりかたになれりけるを見てよめる」という詞書のある歌であり、桜は散り始めている)。
「紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるばみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも」(万4109:これは「紅(くれなゐ)」は色褪(あ)せていくもので、その花やかさ艶(あで)やかさも空(む)しいものだ、といっている。しかし、仏教的な無常観や空(むな)しさが現れているわけではない。ここで言う「紅(くれなゐ)」(の衣)は(夫が浮気しているところの)派手な「遊行女婦」たる若い女を言い、地味な橡(つるばみ:ドングリ(染料になる))の衣は長年連れ添ったその妻を言っている)。
「春花のうつろふまでに相見ねば月日数(よ)みつつ妹待つらむぞ」(万3982:これも春花は散っている。しかし、世は常なく無常だと言っているわけではなく、春も過ぎ、もう夏になる。それほど長く私は会うこともできずあなたを待っている。会いたい。と言っている)。
・人の心に関しても言われる。
「百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草のうつろふ心我れ持ためやも」(万3059:人がなんと言おうと、私は心変わりなどしない)。
・応用的に物的移動が表現されることもある。もの(人)の移動が現象の情況的変化として表現されているわけである。それにより、その人が、その人の人生が、そういう変動情況にあるものであること、その人がそういう定めに生きていること、が表現される。
「斎宮は、去年(こぞ)、内裏(うち)に入りたまふべかりしを、さまざま、さはることありて、この秋、入りたまふ。九月(ながつき)には、やがて、野の宮に移ろひたまふべければ…」(『源氏物語』:「斎宮」は伊勢神宮で神に奉仕する女性。決定から伊勢に入るまで、約三年かかるという。その三年の間に運命(さだめ)の路へとはいっていくわけです)。
「俊蔭、此の林より西にあたれる栴檀の林にうつろひて此の琴の音を試みむ、とて出で立つ程に…」(『宇津保物語』:俊蔭(としかげ)がなにものかに導かれるかのように、移動している)。
・多少後世のものと思われますが、「うつり」が、「うつり(移り)」ではなく、「うつり(写り・映り)」を表現しているように思われるものもある。これは、その「うつり(写り・映り)」という現象の変化が、つまり、美しく変化しているそれが、表現される。
「花さかりまたも(まだも)すきぬに(すぎぬに)吉野河影にうつろふ岸の山吹」(『後撰和歌集』)。
「暮れかかるほど、花の木の間に、夕日花やかにうつろひて…」(『増鏡』:夕日が揺れ動いている)。